☆ 行為論 ☆

井出 薫

 子供に「あの赤いものは何」と尋ねられて母親が「サテン」と答える。ところが子供は聞き間違いをして「サテン」ではなく「サタン」だと思い込む。それ以来、その子は「赤いサテン」を見ると怯えるようになる。では、「赤いサテンを見て怯える」という行為はどのように理解するべきだろうか。

 「赤いサテン」は恐怖の対象で、「サタンと聞き間違えたこと」が恐怖の原因であると捉え、「行為」の特徴は原因(聞き間違い)ではなく、「対象」(赤いサテン)にあるという立場を「行為の志向説」と呼ぶ。確かに子供が恐れているのは「サタンと聞き間違えたこと」ではなく「赤いサテン」だ。人間の行為を特徴づけるのは行為の原因ではなく志向性(行為とは何か対象を含むということ)にある。行為を問い質す場合、通常、原因ではなく理由を尋ねるのもこのためだと言ってよい。

 これに対して、「行為の因果説」という立場があり、行為とは原因・結果という一連の経過で特徴づけられると反論する。上の例をもう一度考察してみよう。子供は「赤いサテン」を知覚する。そして、この知覚を切っ掛けにして、過去の記憶(赤いサテンを赤いサタンだと思い込んだ)と相俟って子供は怯える。つまり、赤いサテンは行為の対象というよりも、知覚を通じた行為の原因とみるべきなのだというのがこの立場だ。ただし、この場合の「因果関係」とは物理的な因果関係とは異なる。たとえば「強風でよろけた」というような例は単純な物理的因果関係で、人間も、強風で飛んで行った紙屑も本質的に差はない。物理的な因果関係では人間はただの物体に過ぎない。だが「行為の因果説」で論じられる因果関係は人間特有のもので、一般的に知覚という働きが介在する。論者によっては出来事の因果関係と呼ぶこともある。「出来事」とは、人に認知されて初めて単なる物理的な事象ではなく、「(何らかの意味を持つ)出来事」になるからだ。

 こうした行為の特徴を示すものが何かという議論(行為論と呼ばれる)は、60年代の英米哲学界で盛んに行われた。哲学では当たり前のことだが、結局明快な結論が出ることなく議論は終息したが、人の行為が単純な物理的事象ではないことが明らかになった。さらに議論の過程で人の行為が(行為を)記述する言葉と分ち難く結びついていることも認識された。そして言語と行為が分ち難く結合しているという認識は、英米哲学界とは明確に一線を画するフランス哲学界で勃興したポストモダニズムにも継承されている。

 強風でよろけるというような不可抗力ではなく、法的に問題とされうる意図的な身体活動を行為と呼ぶ。不可抗力であったか、意図的な行為であったかは法的係争では決定的な重要性を担う。だから、不可抗力ではなく意図的な行為であることの根拠を探る行為論は私たちの日常生活に密接な関わりを持つ。哲学は浮世離れしていると思われがちだが、その根っこは常に私たちの日常にある。

(注)「赤いサテン」の事例は、ウィトゲンシュタインの遺稿の編集者アンスコムの著作「インテンション」から引用。ウィトゲンシュタインは恐怖の対象と原因が異なる場合があることを指摘し、アンスコムの思想に決定的な影響を与えた。



(H20/3/5記)


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