☆ 数学とは何か ☆

井出 薫

 物理学が自然現象一般を研究対象とすること、生物学が生物や生命現象を研究対象とすることは誰でも知っている。勿論「自然現象とは何か」、「生命とは何か」という哲学的な議論はあるが、研究者も一般市民もその対象が何かについて疑問に思うことはない。哲学者が求める厳密な定義や説明はなくとも、誰もが、漠然とではあるが、自然現象が何か、生命が何か知っている。だが数学は別だ。数学の研究対象とは何だろう。

 昔から、数学は自然科学の一分野か否かという難問があるが意見の一致はみていない。将来も意見が一致することはなさそうだ。仕方なく、今では、こういう議論はあまり意味がないというプラグマティックな立場を取って問題を避けている者が多い。勿論、数学は大変に成功した学問であり、大多数の人が最も信頼できる学問だと考えている。だから、特段、その身分が明らかにならずとも問題が生じることはない。とは言え、謎は残っているのに、その謎から目を背けている人が多いのは、問題の難しさを物語っている。

 数学的世界という物理世界とは異なる世界が実在しており、数学はそれを対象とする学問なのだという、しばしば数学的プラトニズムと呼ばれる立場がある。だがそのような世界を見た者がいないのは勿論のこと、その存在を証明することもできない。ただ数学的な存在(たとえば太さのない線)が現実には存在しないということから、こういう世界が想定されているだけで、実在する証拠はない。数学的プラトニズムは比喩に過ぎないと言えよう。

 数学は論理学から演繹されるという論理主義と呼ばれる立場がある。だが20世紀初頭の数学者・論理学者の研究、特に、ゲーデルの不完全性定理により論理主義のプログラムは破綻したと目されている。数学の全体系を論理学の公理と演繹規則から導出することはできないことが今では明らかになっている。それに、たとえ論理主義が正しいとしても、それでは論理学は何を対象とする学問なのかという同じ問題が生じてしまう。因みに、論理主義は、記号論理学で画期的な業績を残しアリストテレス以来の偉大な論理学者と称えられるフレーゲの研究を出発点とするが、フレーゲ自身は数学的プラトニズムに傾いていたと言われている。

 ウィトゲンシュタインは、数学は人間が使用する道具の一つであるという立場を強調し、証明も反証も出来ない命題は(製造不可能な道具も同然であるから)それについて語ることは無意味だという極端な主張を展開した。だがウィトゲンシュタインの立場を採用すると、数学が余りにも窮屈になりその威力は半減する。(注)数学を道具として把握するという見解には一定の共感を示す者はいるが(筆者もその一人だが)、ウィトゲンシュタインの数学論そのものを支持する者はほとんどいない。

(注)証明は人間が見通すことができる短いものでなければならない、というのがウィトゲンシュタインの主張だとみなされている。その結果、ウィトゲンシュタインの立場はしばしば極端な有限主義だと揶揄される。ただし、この評価が的を射ているかどうかは定かではない。

 筆者の見解は、以前にも述べたとおり、数学は、自然科学の学的モデル・道具一般を対象とする学問だというもので、数学は自然科学の一部とみなすこともできるし、自然科学を発展の足掛かりとする人間が使う道具の一つだという見方もできる。だが、どちらの見方を採用しても、多くの人はこれでは問題解決になっていないと感じるだろう。筆者自身、これが数学という学問の正しい捉え方だという自負を持っているが、数学の全てがこれで語り尽くせるとは考えていない。

 数学、その難解だが美しい世界は、多くの人を魅了してきた。そして、これからも魅了し続けるだろう。数学が苦手だという人でも、その整然たる美しさと完全性を称賛する人は多い。数学の天才こそ真の天才だという考えも広く普及している。

 だからこそ、数学そのものだけではなく、数学の外部から数学の意味するところを探究することには意義がある。近頃、コンピュータサイエンスや複雑系への興味の広がりもあり、数学を題材とした読み物や数学の歴史を語った著作が書店で目につくようになってきた。これは大変によいことだ。それは単に実用的に役立つというだけではなく、読者を数学的世界に近づけ、視野を広げて心を豊かにする。読者の中には数学とはそもそも何かというここで取り上げた問題に興味を持つ者も出てくるだろう。ここで論じたとおり、その答えを出すことは難しい。答えを見つけたとしても金持ちになれるわけでもない。だが時にはこういう問題を考えることが、大いに人生を豊かにしてくれるのではないだろうか。



(H20/2/13記)


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