☆ 心と身体(試論) ☆

井出 薫

 心は脳の働きの所産だと考えられている。勿論心は謎に満ちており身体とは独立した霊魂などが存在することを否定はできない。だがたとえ霊魂が存在するとしても、体調不良時の気分の悪さ、脳が障害を受けた時に意識を失ったり変調をきたしたりすることから脳が心に決定的な役割を果たしていることは間違いない。

 しかしながら、心と身体の関係は非常に微妙でどのように理解すればよいのか意見の一致をみていない。「消化が胃腸など消化器の働きであるように、心は脳の働きだ」という説明がある。しかし、消化は消化を意識することはないが心は心を意識すること(自己意識)、消化が物理化学的な過程であるのに対して心を物理化学的な過程と捉えるのは無理があることなどから、明らかに説明としては不十分だ。

 とは言え、心を霊魂など非物質的な存在と無関係であると仮定すれば、(器官としての)消化器と(機能としての)消化の関係との類推でどこまで脳と心の関係を理解することができるか考察することは大いに役立つ。消化器の構造から消化という機能を物理化学的に説明することができる。逆に消化という機能から消化器官が具備するべき構造や物理化学的な条件がある程度特定できる。つまり消化器官と消化との間には物理的な因果関係を確立することができる。では脳と心との間にも同じことが成立するだろうか。脳に刺激を与えることで特定のイメージが意識に浮かぶことがある。薬や酒、煙草の使用で気分が変わる。こういう事実から身体が心に因果的な影響を及ぼしていることは容易に確認できる。逆に、心を落ち着かせることで心拍数や血圧など体内の状態を変えることができる、心理療法で心身症を癒すことができることなどから、心の働きが脳を通じて身体に影響を与えていることも認められる。このように心と身体には因果的な連関がある。だが問題はこの因果関係が消化と消化器官のそれとは全く異質な性格を持つということにある。消化はそれ自身が物理化学的な過程であり、物理化学的な存在である消化器と因果的な連関を見つけ出すことは容易い。だが心はそうではない。たとえばコーチが試合前に緊張する選手に何らかの暗示を与えて心を落ち着かせ、その結果緊張して硬くなっていた選手の筋肉をほぐすことに成功したとしよう。暗示により脳に何らかの変化が起きる。そして、その脳の変化が引き金となり筋肉がほぐされる。ここで、後者の「脳内に生じた変化→筋肉の変化」の過程は完全に物理化学的な過程として説明することができるが、前者の「暗示→脳の変化」を物理化学的な過程として説明することができない。つまり心から脳という身体器官へと繋ぐ適当な通路がない。このことを説明するために、暗示を話し言葉によるものだとしよう。そうすると話し言葉は物理的には空気振動であり、それが選手の聴覚器官に物理的な影響を与え、それが脳内の物理化学的な過程を引き起こすことになる。これが「暗示」と呼ばれる心的作用を物理化学に翻訳した言葉となる。このように翻訳すれば、暗示による緊張からの解放をすべて物理化学的な過程として説明することができる。だが問題は「暗示」という心的な現象を空気振動や聴覚、脳内の過程に還元できるのかということだ。これはできないと言わなくてはならない。さもないと、そもそもなぜ心的な現象が存在するのか、なぜコンピュータのように心(あるいは意識)などという厄介なものなしにすべてを制御することができないのか、という問いに対して説明を与える余地がなくなる。なぜなら暗示と物理化学的過程に差異がないとすれば、暗示という心的な次元は関連する物理化学的現象並びに身体活動の単なる記号表現に過ぎないことになり、「暗示」という心的作用は現実存在しないことになるからだ。ここで「心など幻想だ」と答えることはできる。しかし、それは私たちの経験と合致しない。この私の気持ち、不快、憂鬱、喜び、哲学的問題を考えているという意識、これらは幻想ではない。これらが幻想であると言うのであれば全ての物理世界も幻想の可能性がある。何故なら物理世界もそれに対する学説も心的印象を通じて初めて体験されるからだ。

 こうして、心と身体の間には、消化と消化器官のように物理化学的な過程として説明するだけでは不十分な何かが残ることが明らかになる。ここに心の存在の不可思議な性格が示されている。哲学者や科学者たちがこの問題に様々な解答を与えてきたが誰もが納得できるような説明はない。2年ほど前に言語行為論などで著名な哲学者J.サールが「MIND」(日本語訳「心の哲学」2006年、朝日出版社)という著作で心の問題を広範囲に論じて話題になっていたが、そこでも心の問題は解決されていない。サールはその著作の中で「世界は素粒子・原子・分子の集合体で基礎的な物理法則ですべて理解される存在であり、「心」も物理的な過程の一部とみなすべきだ」というある種の唯物論的な立場を表明しているが、必ずしも説得力があるとは言えない。これまで論じてきたことからも分かるとおり「心地よい鈴の音」と「周波数スペクトルがこれこれの空気振動」との間には決定的な違いがある。もし違いがないのであれば、なぜ「心地よい鈴の音」という表現が独自な意味を持つのか説明する余地がない。勿論「心地よい鈴の音」という心的現象は、空気振動と鼓膜の振動に還元できるものではなく、鼓膜の振動に起因する脳内やその他の身体器官の活動全体から生み出されるものだから、「鈴の音」と空気振動を直接的に対応付けることができないとしても物理化学的な説明が不可能だということにはならないという反論があるだろう。だが消化と消化器官、心と脳の対比による考察を思い起こしてもらえば、物理的世界の中でいくら考察の範囲を拡張しても、どうしても心と身体を繋ぐところで説明できない何かが現れることが分かるだろう。(注)やはり心は物理的な対象ではないとみるしかない。サールの立場の他にも、より徹底的に唯物論的である心脳同一説、心は脳という物質の活動の随伴現象だとする随伴現象説など様々な立場があるが、いずれもサールの説明以上の説得力があるとは言えない。

(注)「テレビを観ようと思い、リモコンのスイッチをオンにする」という行為を考えてみよう。脳内では一連の物理化学的な反応が起きている。この一連の物理化学的な反応は全て物理学や化学の言葉で説明できる。「テレビを観る」という私の意志が、この物理化学的な過程に合理的に介入する余地があるとは思えない。あるとしたら物理学や化学は霊的な存在抜きには一貫した理論を構築できないということになろう。だが、これは明らかにサールの唯物論的な思想に反する。

 これまでの議論から容易に想像が付くと思われるが、いずれの立場を取るにしても、どうしても越えられない難問が「どうして心がなくてはいけないのか。」という問いなのだ。なぜ人間はコンピュータと違い、純粋な物理学的なシステムではなく、「心」なる厄介な存在を抱え込んでいるのか。これに誰も答えられない。いや実は私たちが気付かないだけでコンピュータも心を持つのだと考えることもできなくはない。しかし、その真偽を確かめる方法はなく、こういう考えに同意する者もほとんどいないだろう。そう考える根拠が何もないからだ。結局、最も分かりやすい説明は、心は(脳という身体器官に決定的な影響を受けているが)脳とは別の非物質的な存在だとする心身二元論だ。だが、二元論は物質界と非物質界という異質な存在がどうやって相互作用するのかというデカルト以来の難問を回避できない。唯物論的な立場ならば不完全とは言え近代科学という強力な道具を使い議論ができるが、この二元論の難問に対しては何ら解決する手立てがない。

 こうして、心と身体の関係は解決困難な謎として残っている。因みに、私の立場は「この問題を科学で解決することはできない。しかし、それは必ずしも非物質的な霊魂のような存在を含意するものではない」というものだが、これだけでは立場の表明に過ぎず何の説明にもなっていない。心と身体の問題はおそらく永遠の課題として人類に残されることになる。ただ、だからこそ私たちは心を大切にしなくてはならないという貴重な教訓を得ることができる。それゆえ謎を解くことができないとしても、心と身体の問題を考えることには意義がある。



(H20/2/1記)


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