☆ 哲学の出発点=倫理 ☆

井出 薫

 私は仕事で急いでいる。そのときたくさんの人が行き交う地下道でうずくまり苦しそうにしている人がいる。その人と顔が合う。私は見捨てて通り過ぎてしまう。誰か別の者が助けるだろう、大したことはないだろうと自分に言い聞かせて。

 この出会いこそ哲学の始まりだ。私はそのとき、私が私であることを再認識するとともに、顔を通じて現れる他者が間違いなく存在することを知る。そして、そのとき初めて、アリストテレスやハイデガーが哲学の第一問題、根源的な問題であるとする「存在とは何か」という問いの地平が開かれる。

 私が見捨てた人がそのまま死亡したとしたら、私は後悔の念に苛まれるだろう。苦しんでいる人を見捨てたとき、私は他者への責任を放棄した。他者を受け入れ責任を持つという倫理的な決断を拒否した。誰もそれに気付かず私を咎めないとしても私には罪がある。私がその罪を認めるとき、初めて「存在」への問いへと向かう。それなくして「存在」への問いなど生まれないし、生まれたとしてもすぐに消えてしまう。

 倫理を問うことがすべての出発点であり、哲学の出発点であることを、このことが示している。ソクラテスとプラトンが求めたものは、単なる外界の真理ではなく倫理だった。イデアの最高峰、すべてのイデアを照らし出すのは「善」のイデアとされる。スピノザの主著はその主題が存在の理論的解明であるにも拘わらず「エチカ(倫理)」という題名が与えられている。他者との出会いで促される「倫理」への問いは「存在」の研究に先行する。

 現代において哲学に存在価値があるすれば、倫理の探究においてしかない。すべての学を包含した認識論的・理論的世界や現代社会も確かに哲学的考察の対象となる。だがそれも倫理という地点からの展望でない限りは大した意味はない。けっして途絶えることのない倫理への問い、これこそが哲学の第一原理なのだ。



(H20/1/25記)


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