☆ 耐性菌 ☆

井出 薫

 薬が効かない耐性菌はなぜ生まれるのだろう。抗菌物質が投与されると病原菌は懸命にその対策を練るのだろうか。そんなことはありえない。状況を分析して、問題点を洗い出し、目標を立てて、解決策を考案し、実行する、こういう知的な行動は人間だけが可能で、病原菌のような微生物にできることではない。

 実は、抗菌物質の存在の有無に関わりなく、突然変異により耐性菌はごく少数だが存在している。だが抗菌物質など病原菌の敵となる物質が存在しない限り、そういう耐性能力を持っていても宝の持ち腐れで、却ってその能力を複製する手間が掛かり生存競争には不利になる。だから抗菌剤が投与されない限り耐性菌の存在が顕在化することはない。

 患者の体内で増殖した菌の中にも耐性菌は存在するが、同じ理屈で抗菌剤が投与されるまでは耐性菌はごく少数派に留まり勢力を伸ばすことはない。ところが抗菌剤が投与されると状況は一変する。耐性能力を持たない菌は抗菌物質の影響で次々と死んでいく。その結果、微生物生態系に空白が生じ耐性菌が増殖する機会が増大する。だがこのような状況が生じても、耐性菌が必ず体内で増殖できるわけではない。病原菌の敵は抗菌剤だけではなく生物に生来備わる免疫機構こそが最大の敵となる。だから耐性菌だけが生き残ってもその数が少なければ抗菌剤ではなく免疫機構に退治され、耐性菌が増殖しその存在が顕在化することはない。

 だから、抗菌剤の処方箋には必ずこう記されている。「医師の指示なく服用を中止しないでください」と。抗菌剤を服用中は、病原菌(非耐性菌+耐性菌)と抗菌剤・免疫連合の戦いが体内で行われている。ここで非耐性菌を完全に駆除するまで抗菌剤を服用し続ければ、あとは耐性菌と免疫の戦いになる。耐性菌は増殖能力で非耐性菌に劣り菌の数はさほど多くならないので、免疫は耐性菌に打ち勝つことができる。だからたとえ耐性菌が僅かに存在しても、抗菌剤を徹底的に服用することで病原菌を退治することができる。ところが体調が少し良くなったからと言って服用を勝手に中止すると、病原菌がまだ多数体内に残った状態で免疫機構だけで病原菌と戦わなければならなくなる。しかも、この時点では病気の初期段階に比べて、抗菌剤を投与した結果、病原菌に占める耐性菌の割合が遥かに高くなっている。しかも耐性菌が非耐性菌と接触すると耐性能力が非耐性菌にコピーされるという現象がしばしば起きる。こうして、耐性菌が主体となった病原菌の増殖速度が免疫機構による駆除率を上回る状態になると、今度は抗菌剤を投与しても効果がなく、体内は耐性菌だらけになる。ここで他に有効な治療法がないと、病気は長引き、時として患者を死に至らしめる。そして耐性菌は他の人々や感染可能な動物に感染することで人間社会と自然界に広がっていく。

 こうして中途半端な抗菌剤の服用が耐性菌を生み出す。また副作用が強いときには服用を途中で中止しなくてはならないことがあるし、発病当初から耐性菌の割合が高い場合は抗菌剤の効果は薄く耐性菌を増殖させるだけに終わることもある。

 抗菌剤が開業医でも気軽に利用されている状況では、こういうメカニズムで耐性菌が増大していくことは避けがたい。抗菌剤の処方は慎重にするように勧告がなされているが、高齢者や高熱が続く場合などは抗菌剤の処方を避けるわけにはいかない。可能であれば抗菌剤を処方する前に病原菌の種類を検査してどの抗菌剤が有効か確認してから処方するべきだが、普通の開業医では無理だし、大病院でも検査には時間が掛かる。

 こうして病原菌と人間の戦いは絶えることがない。最後に勝つのはどちらか。抗菌剤に頼るだけでは人間の勝ち目は薄い。衛生状態の改善とワクチンによる免疫の活性化を主要な戦略とすることで初めて、人間は勝利を収めるところまではいかずとも、やや優勢の引き分けくらいには持ち込める。

 いずれにしろ、耐性菌を撲滅することはできない。ワクチンも新種の菌が登場すれば新しい種類のワクチンが必要となる。やはりこの過程にも終わりはない。衛生環境の改善にも限界がある。無菌状態に近い環境は却って健康に害を及ぼし、ワクチンや抗菌薬なしには病原菌と戦えない身体を作ってしまう。人間はいくら進歩しても自然環境を超越することはできないことを肝に銘じておきたい。



(H20/1/15記)


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