☆ まだ、フランス思想? ☆

井出 薫

 書店の哲学書・思想書コーナーを覗くと、現代フランス思想とそれに決定的な影響を与えたハイデガーとニーチェの著作がずらっと並んでいて、カントとヘーゲルの著作と解説書と合わせると、哲学書・思想書コーナーの書棚の大部分を占有していることが多い。

 現代哲学は、フランスとドイツを中心とする超越論的哲学と英米を中心とする分析哲学の二つが主要潮流をなすと言われている。だが、日本では、前者その中でもフランス哲学思想が圧倒的に優勢である。分析哲学の著作などほんの申し訳程度に並べてあるだけだ。カルナップ、クワイン、デイビットソンなど重要な分析哲学系の哲学者の翻訳書は極めて少ない。唯一の例外がウィトゲンシュタインであり、ハイデガーやデリダ、フーコーなどと匹敵するくらい多くの著作が発刊されている。だが、日本では、ウィトゲンシュタインは分析哲学者というより、フランス流のポストモダニズムの先駆者として評価されている場合が多い。

 だから、日本の出版界では、ウィトゲンシュタインも含めて、ポストモダニズムという名称で括られることが多いフランス現代思想とその関連の著作が、哲学思想書の大多数を占めていると言っても過言ではない。

(注)尤も、ウィトゲンシュタインが生きていたら、自分がデリダの先駆者だなどと言われたら激怒するだろう。ウィトゲンシュタインが最も嫌悪したのが現代フランス思想のような衒学的な思想なのだ。それに呼応してか、日本やアメリカでは、ウィトゲンシュタインはポストモダニズムの先駆者という観点で論じられることが多いが、本家本元のフランスではウィトゲンシュタインは、筋金入りのアンチポストモダニズムのブーヴレスなど一部の哲学者を除くと評価は低い。最近は少し様子が変わってきたらしいが、ウィトゲンシュタインはフランスでは無視されてきた。デリダやドゥルーズ、フーコー、バルドなどフランス現代思想の代表人物の主要著作を読めば、それは容易に理解されよう。ウィトゲンシュタインが引用されていることは皆無である。

 だが、フランス現代思想はそれほど優れたものなのだろうか。20世紀後半から21世紀にかけて生まれた哲学思想の中で最良のものなのだろうか。

 意見は分かれるだろう。だが、私の考えでは答えは明確に「ノー」である。サルトルが世界的な評価を得て、日本でも熱狂的に受容された学生運動華やかしき時代1960年代以降、マルクス主義と並んで、構造主義、ポスト構造主義、脱構築など一貫して日本の言論界はフランス思想を積極的に受容してきた。ほとんど無批判にそれを消化吸収してきたと言っても過言ではない。

 もちろん、英米の分析哲学に着目しフランス思想に批判的な哲学者も少なくはなかったが、その声が世間に響き渡ることはなかった。英米流の分析哲学は、論理分析を主要な方法として言葉の意味や行為に関する瑣末な議論に終始する、およそ哲学という名に相応しい気宇壮大な思想を展開しない詰まらない学派として無視された。

 だが、その内実をよく調べれば、現代フランス哲学思想の多くの部分、特に人気のある哲学者の思想の多くが、言葉のマジックを縦横無尽に駆使した大風呂敷以外の何ものでもないこと、フランス思想の熱狂的な支持者たちがその思想を理解しているのかどうか疑わしいこと、そもそも現代フランス思想は人に理解されることを目指していないことが分かるはずだ。

 次の言説をみてもらいたい。(「言説」=ディスクルスというのも、現代フランス思想の信奉者がやたらと濫用する言葉だが、その意味は曖昧だ。意見、言明などとどこが違うのか聞かれて明快な解答ができる専門家が居るとは思えない。)

事例1:

 書かれたもの、話されたものは、それを取り囲むコンテクストを離れて理解することはできない。「明日は金曜日」とだけ書かれた手紙の意味は、それが書かれた状況が分からなければ理解できない。だが、時間の中で、コンテクストは失われていく。そのとき、書かれたものはテクストとなる。テクストはそれ自体で存在するものではない。失われたコンテクストに代わり、読者がテクストに意味を読み込んでいかなければならない。コンテクストが消滅しているから、私たちは、そこに読むことの自由を見い出すことができる。テクストは常に可能性の中心にある。私たちは、テクストを読むことで自由という最高の快感を味わうことが出来る。それがテクストの快楽だ。だが、私たちが自由にテクストを読むことが出来ると信じているところに、実は落とし穴がある。読む主体としての私は決して自由ではない、自己の決断でテクストを読み解いているわけではない。逆である。読者は、多様で重層的なテクストの洪水の中で、テクストにより読むことを強いられている。私が主体的に読んでいるのではなく、私はテクストに読むことを強制されている。読む主体などというものは存在しない。多様なテクストが交錯する力の場があるだけだ。その力の場にある仮想的で一時的な特異点が誤って自律した「主体」=「読む主体」=「自由に行為する主体」と錯覚される。だが、その特異点はそれ自体で存在するものではなく、力が交錯することで仮想的に作られるものであり、次の瞬間には破壊されるものでしかない。つまり、主体は存在しない。主体としての人間も存在しない。人間は死んだ。いや、そもそも人間など存在しなかったのだ。在るのは、ただ、絶え間なく変容する力の場、テクストの戯れだけである。

事例2:

 許されるものを許すことは本当に許すことではない。なぜなら、許すことが出来るものは許すことが予期されているのだから、許すことは許したことにはならない。許されないものを許すとき初めて本当に許すことになる。だが、許すことができないものを許すことは不可能である。許すことが可能であるならば、許されないものではないからだ。それゆえ、許しというものはありえない。だが、許しがありえないということを、私たちはここで辛うじて語ることができている。それゆえ、この不可能性は絶対的なものでありながら、同時に絶対的なものではない。私たちは、この不可能性の体験という場に在ることができるのだ。それは、不可能を可能とするものではない。不可能なものはどこまで行っても不可能であり、可能性へと変容することもなければ、「可能性=可能性/不可能性」というヘーゲル的な弁証法的思弁的止揚もありえない。にも拘わらず、許しへの回路がどこかに開いている。ただし、それは思索によっても、実践によっても掴むことが出来るものではない。

事例3:

 「はなもげひゃりら」という言葉は無意味であるという意味を持つ。それゆえ、言葉を有意味なものと無意味なものに区別することは無意味である。だが、この区別を試みること自体が無意味であるという意味を持つことは認められる。

 どうだろう。これは私が適当にでっちあげた文章だが、現代フランス哲学をある程度知っていて、フランス思想の熱狂的な信奉者でない人には、これが、現代フランス思想、ポストモダニズムの著作によくある文章に似たものであることに同意してもらえるだろう。もちろん、現代フランス思想の熱狂的な支持者は、ここに記述した文章はフランス思想を皮相的にしか理解していない馬鹿が書いた駄文で、出鱈目で、出来損ないで、ツァラトストラの猿がツァラトストラの物真似をしているとの同じものでしかないと批判するだろう。

 だが、現代フランス思想の多くの著作は、内容の点では私がここに書いたものと大した違いはない。ただ、遥かに上手に書かれており、気の利いた文章が使われおり、多くの引用がなされており、読破するのに膨大な時間が掛かるだけだ。

 事例3の言説?を少し見てみよう。「はなもげひゃりら」という言葉は無意味だ。ただ字を並べただけだ。確かに、「「はなもげひゃりら」は無意味な言葉の例である。」と語ることは出来る。だから、「はなもげひゃりら」という言葉が使えることはあるわけだ。その意味では、この言葉が、言葉の使用という観点から意義を持つことはある。だが、だからと言って、「はなもげひゃりら」に意味があるということにはならない。「はなもげひゃりら」という無意味な言葉と、「桜」という有意味な言葉の差がなくなるわけではない。

 だが、こういう分析を現代フランス思想の信奉者たちは無視する。こんな分析など、物事の本質を捉えるために何の役にも立たないと批判する。言葉の戯れの中に示されるもの、そこにこそ、思考のドグマを突破する鍵がある、これがポストモダニズムの思想家とその信奉者たちの理屈だ。

 なんとなく分からないでもないが、やはり何を言っているか分からないというのが本当のところだ。大部分の人は上のようなポストモダニストの主張を理解できないだろう。

 ただ、なんとなく、深遠なことが語られているような気になることはあるだろう。そこで、このように語っている者が、現代思想の代表者であるなどと紹介されると、「なるほど、よく分からないが、確かに深遠な真理がここに隠されている(様な気がする)。」などと思い込まされる読者も出てくるだろう。

 だが、こんな理屈は駄弁に過ぎない。そこには何の論理もない。レトリックがあるに過ぎない。それも出来の悪いレトリックだ。

 ハイデガーは、カルナップの論理学を駆使したハイデガー批判に対して「論理学そのものを問え」と応酬した。ハイデガーは確かにポストモダニズム特にデリダ流の脱構築の先駆者である。ハイデガーはこまごまとした論理の積み重ねに対してはあからさまに嫌悪を示した。ハイデガーの著作はレトリックの塊だ。だが、それでも、晩年の神秘主義的とも言える態度に移行したあとですら、ハイデガーは、他者との対話の必要性は理解していた。自分のレトリックに陶酔して他者を無視するようなことはしなかった。だが、現代フランス思想の信奉者は批判を寄せ付けない。はぐらかしをするばかりで、批判者とまともな対話をしようとしない。

 私は、何も、現代フランス思想を全面的に否定するのではない。また、ここで私が批判してきたのは、フランスのポストモダニズムのすべてではなく、主としてデリダ流の脱構築論だけである。構造主義、ポスト構造主義、それに先立つフランスにおけるモダニズムの最後の光だったサルトル流の実存主義などには、確かに、多くの意義があり、いまでも大いに学ぶべき点がある。

 デリダの脱構築も、世界を記述する唯一無二の方法があるとか、人間は全能の主体だ、書物には唯一無二の正しい読み方がある、などという古臭いドグマを払拭するために大いに貢献した。その脱構築によるテクスト読解は新しい批評の手法を開拓した。西洋思想が、西洋の文字が表音文字であることに大いに影響を受けていることを指摘したのも(その妥当性はともかくとして)デリダの業績である。デリダが20世紀終盤の優れた思想家の一人であることを否定することはできない。

 現代フランス思想の流儀による著述方法には魅力がある。そういう文章を読むことの面白さも理解できる。フランス思想の本は、英米流の分析哲学系の著作より遥かに面白い。私自身、事例1から3に示されるような文章を書くことに独特の快楽を感じる。他の人間にはみえていないことが自分にはみえているような心地よい錯覚に浸ることが出来る。

 だが、だからこそ、現代フランス思想に陶酔したり、それが最高の思想だなどと信じ込んだりしてはならないのだ。それは思想における有害な麻薬である。それは、思想における無責任な姿勢、思想家の怠慢を助長する。思想を主張する者には本来自分の思想の正当性を示す挙証責任があるはずだが、ポストモダニズムは勝手に責任免除をしてしまう。ポストモダニズムの氾濫は、思考力と思想を退化させることを否定することはできない。

 私たちは、現代フランス思想の業績を認めながらも、そろそろ、それを捨て去るべきなのだ。フランスの偉大なる哲学者・思想家・科学者デカルトの合理主義にもう一度回帰するべきときがきている。瑣末な議論が多く、読んでも面白くもなく、退屈するばかりの分析哲学系の著作にも目を向けるべきだ。そこにこそ、デカルトの伝統が生きているのだから。

(H15/8/12記)


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