☆ アナログとデジタル ☆

井出 薫

 15年前の話しだが、小泉元首相が(当時)郵政大臣だったころ、ある企業の視察にいき、施設の説明をしていた技術系副社長に質問した。「アナログとデジタルってどこが違うの」と。副社長は虚を突かれたのか、傍目で見ても動揺し分かりやすいとはとても言えない説明をして、小泉大臣も理解したようには見えなかった。

 別に副社長や小泉元首相にケチを付けるためにこんな話をしているのではない。「デジタル」と「アナログ」という言葉が至る所で使われていながら、その違いを問われると専門家でもうまく答えられないことを指摘したいのだ。

 デジタルは「0と1の集合で表現され離散的な値をとるもの」で、アナログは「連続的な値を取るもの」という説明がなされることがあるが、これだけでは何とも理解しがたい。「0と1」の2進法がデジタルを表現する基本だとみなされることがあるが間違っている。別に10進法でなくても2進法でも連続集合である実数や複素数を表現することができる。0と1はコンピュータで有名になったが別にデジタルを特徴づけるものではない。

 デジタルとアナログを区別するのは離散的と連続的だが、アナログ的存在とされるもの、例えば人間や自然界は本当に連続的な存在なのだろうか。そして連続的な存在は離散的な存在と本質的な違いを持つのだろうか。

 2番目の問いに対しては、離散的な無限集合、例えば自然数の集合と、実数のような連続的な無限集合を1対1対応させることができない、つまり離散的な無限集合(可附番集合)と連続集合とが異なる濃度(集合の大きさ)を持つことから肯定的に回答することができる。とは言え、無限集合の公理体系を可附番集合の上で展開できることを考えると、数学的には両者が違うとは言い切れない面がある。実際、離散的(かつ有限)な集合しか扱うことができないコンピュータが実数や複素数に関わる様々な問題を解くことができる。

 人間や自然が連続的な存在であるかどうかという問いには現時点では答えることができない。量子論では空間や時間を無限に分割することはできず、プランクの長さや時間よりも小さな距離や時間間隔は意味をなさないとされる。最新の物理理論では世界はプランクの長さ・時間程度の大きさの(超対称性を持つ)紐から構成されると言われている。これが正しければ、世界は離散的な存在で、ただ近似的にのみ世界は連続的だと言う方が正しいことになる。

 こうして考えてくると、数学的・物理学的な意味でデジタル・アナログの違いを厳密に定義することはできそうもない。ではデジタルとアナログの違いはどのように考えればよいのだろうか。

 ここでウィトゲンシュタインを引用して、これは現実社会における言葉の使用方法の問題に過ぎず、言葉の厳密な定義を求めるのは無意味なのだと答えたくなる。だが現代的な意味でのデジタルという概念が重要かつ有名になったのは、人間が発明したコンピュータが社会で巨大な力を発揮するようになったからであり、言葉の使用の問題に過ぎない、つまり別にどうでもよいという問題ではない。

 デジタルとアナログの違いとは詰まる所、数学的に表現できるか、できないかの違いと言えるのではないだろうか。なるほど音声や映像をデジタル処理することはできる。デジタル処理できるものは数学的存在と言える。だが視覚や聴覚の対象である映像や音声をデジタル処理するとき、数学的存在を超えた何かが捨象されていると考えることができる。

 だが難しいのは「数学的に表現することができない存在」と表現した瞬間、私たちはそれを明快に語る方法を失ってしまうことだ。およそ明快なものはすべて数学的に表現できる。20世紀の哲学者たちはこの不明確な存在を何とか表現しようとした。だが成功したとは言えない。文学や芸術はアナログなものを表現していると言えるかもしれないが、どういう意味で、どういう遣り方で表現しているのかと問われると答えようがない。

 こうして元に戻ってしまう。「デジタル」とはコンピュータを駆使した現代文明の先進性と優越性を象徴する単なる「記号」に過ぎないのだろうか。こういうウィトゲンシュタイン的解説は納得しがたい。なぜかと言えば、コンピュータとそれを基盤とする現代のICTが余りにも巨大な存在となって私たちの前に立ち塞がっているからだ。

 とは言え、今のところできることは考えることしかない。「考える」ということの中にアナログとデジタルの本質が隠されているのかもしれない。だが探究はこれからだ。



(H19/12/26記)


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