☆ 数の世界 ☆

井出 薫

 数はけっして客観的に存在するものではなく人間の発明品だ。数が純粋に観念的なものではなく、自然との関わりの中で生まれたものであり、その意味で客観的な性質を持っていることは間違いないが、太陽や月が存在するような意味で存在するのではない。人間がいなくても月や太陽は存在すると言えるが、数も存在するとは言い難い。

 このことを論証するために、まず私たちが使っている数について考えてみよう。自然数は自然との関わりは明確だ。3つの石は自然数3に対応していると考えることができる。しかし自然数だけでは四則演算のうち加算と乗算しかできない。減算ができるためには0と負の整数が必要だ。しかし0や負の整数は数学的な演算により意味が明らかになるもので、自然と直接的な対応関係は存在しない。

 さらに整数だけでは除算ができない。除算は有理数まで数を拡張することで初めて可能となる。有理数まで拡張すれば四則演算はすべて可能となる。

 だが有理数を係数とする代数方程式を考えると有理数だけでは解が求められない場合がある、いやほとんどの場合がそうであることが分かる。X2=2というごく簡単な方程式でも有理数の中には解がない。ルート2つまり無理数が必要となる。

 有理数と無理数を合わせた実数まで進むと数の完成度は高まり、任意のコーシー列の極限がその内部に存在するという所謂完備性を具備することになる。その結果、実数では微積分という近代科学の土台とも言える強力な数学的道具を使用することができるようになる。

 だが実数だけでは解が見つからない代数方程式が無限に存在する。簡単な例がX2=−1で実数には解が存在しない。ここで要請されるのが虚数i、つまり2乗して−1になる数だ。虚数を導入することで数はついに完成の域に達する。実数aとbから合成される複素数a+ibへと数を拡張すれば全ての代数方程式は解を持つことが証明されている。

 こうやって数が拡張されるに従って、自然数に見ることができた数と自然との対応がどんどん希薄になる。数は数学的演算との対応関係の中でのみ意味を持ち、自然との直接的な関係はなくなる。これが数は人間の発明であり自然に存在するものではないということの意味だ。

 だが人間の発明品であるにも拘わらず人間の思うようには扱うことができないのが数の魅力であり奥が深いところだ。難問中の難問と言われてきたフェルマーの最終定理は解決されたが、リーマン予想など未解決のままになっている数論の問題は少なくない。さらに不思議なことに複素数よりも数を拡張することはできない。2乗すると−1になる虚数を導入することで数学は極めて豊かになったのだから、第3の数、たとえばjを導入して、超複素数a+ib+jcのような数を導入すれば数学を更に拡張することができるのではないかと思えるのだが、そういうことはできないことが証明されている。20世紀に入り無限集合に関連して超限数が発明されたが、基本的に数の世界は複素数で限界に達している。つまり数を自由に拡張することはできないのだ。

 こうして、数は人間の発明品でありながら、人間の自由にはならず、商業や測量などとの関わりの中で発達してきたことから、数はけっして観念的な存在ではなく、自然や社会との関わりにおいて初めてその真の姿が現れることが示される。

 主観か客観かという対立で数を捉えるのであれば、数は主観でも客観でもなく、強いて言えば第3の領域にあるということになる。だが第3の領域がどこにあるのか誰も分からない。いや、むしろ、主観と客観とを独立したものと考える二元論的な発想の限界を数という存在、私たちにとって最も身近な存在が示していると言った方がよいだろう。

 20世紀哲学は主観・客観の二元論を徹底的に批判したと言われている。だが哲学的な議論を待つまでもなく、数の存在とその有用性が主観・客観二元論を否定している。



(H19/12/4記)


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