☆ 自然の奥深さ〜モデル・道具論試論〜 ☆

井出 薫

 どのような細胞にも分化する万能細胞は、再生医療や神経難病の治療、さらには生命の本質を解明するために重要な役割を担うと期待されているが、なかなか実現しない。京大の研究チームがヒトの皮膚から万能細胞の生成に成功したと報じられているがそのメカニズムが解明され実用化されるにはまだ時間が掛かるだろう。免疫細胞などでは生殖細胞のDNAから組み換えが起きており生殖細胞のDNAが完全に保持されているわけではない。だが多くの分化した細胞ではDNAは生殖細胞のDNAの大部分がそのまま維持されおり、ちょっと考えると万能細胞を作り出すことはさほど難しいことではないように思える。だが実際は極めて難しい。

 自然科学と言うと、私たちは基礎原理から高度な数学を使って森羅万象を演繹する物理学を頭に思い浮かべる。だから基礎原理さえ分かればすべてが可能という思い込みがある。だが物理学の究極理論と呼ばれている超弦理論やM理論が正しいとしても、そこから万能細胞の作り方を導くことはできない。

 同じような発想で、どんな難しい病気たとえば腫瘍や神経難病と呼ばれている病気などでも必ず治療効果絶大の治療薬を発明することができると信じている人がいるが、実際は不可能だ。腫瘍や神経難病などは一つの治療薬だけで治癒するというわかにはいかないだろう。複数の治療法の併用、人体に備わる免疫機能の活用、予防医学による病気の事前の防止などで対処していかなくてはならない。

 自然界は極めて複雑で重層的な構造を有している。物理学の基礎原理、保存則・対称性、量子論、相対論、電磁法則、ニュートンの3法則などは明快で決定論的な性質を有しているが、そこから数学的に厳密に演繹できる現象はごく限られている。ほとんどの自然現象は現象論的なモデルを立てて試行錯誤しながらその本質を探っていかなくてはならない。超電導や超流動などのように量子論的な性格が直接マクロな現象に現れている場合でも基礎的な方程式から解を導出することはできない。いわんや生命現象ともなると、物理学の基礎原理だけでは何も言えない。各事象に合わせた特異なモデルを作りだすことが不可欠なのだ。だがその一方で宇宙全体やブラックホール、超新星爆発などでは物理学の基礎原理が直接的に役立つようになる。ここもまた微妙なところだ。

 これが自然界そのものの客観的な性格なのか、知識や情報が足りない有限な存在でしかない人間特有の主観的なものに過ぎないのかと問題は19世紀以来論争となっている。特に様々な自然や社会現象の確率的性質が客観的か主観的かというのは有名な問題で、たとえばケインズは主観的なものと主張したが、いまだに結論は出ていない。また統計物理学の性格付け、統計物理学と熱力学の関係についても意見の一致をみていない。統計的であることが客観的な性格なのか、主観的な性格なのかは意見が分かれるところだ。ただどちらにしても人間の活動に熱力学や統計力学が大いに役立つことに変わりはなく、普通こういう論争で物理学者が頭を悩ませることはない。とは言え、ここにも自然という存在の不思議な性質が現れている。尤も不思議なのが自然なのか、人間なのかが問題となっているのだが。

 人間は基礎的な物理学の原理を発見すると、まるで人間は自然界の外に立ち、そこから自然界の客観的な性質を明らかにすることができるような錯覚に陥る。ガリレオは自然という書物は数学という言葉で書かれていると述べているが、これは正しく超越的な場所から自然を鳥瞰するというガリレオのスローガン、デカルトと同様の人間主義を示している。だが万能細胞など生物学では数学は有益な道具だが、数学という言葉で書かれているとはとうてい言えない。

 当たり前のことだが、人間は自然界に、種特有の性質を持って存在している。可視光と呼ばれる周波数の光だけを視覚は捉え赤外線や紫外線を見ることはできない。ただ赤外線の温かさを感じたり、紫外線で日焼けしたりすることで間接的にそれを知ることができるだけだ。蝙蝠のように超音波で地形を探索することもできない。人間は学問と技術を発達させて、感覚を超えた世界を理解することが可能となった。それでも人間という有限の存在にできることは限界があり、人間の種固有の性質やそれに基づき発見・発明された学問的知識や科学技術の道具で解明される自然は、自然の一側面に限られる。これは別に人間の認識能力に絶対的な限界があることを意味しない。ただ人間の認識には人間固有の性質が付き纏うということなのだ。

 人間の認識や諸活動は、研究や活動の対象そのものとは解消できない差異を持つモデル・道具を介した、モデル・道具の生成として特徴づけられる。そして、この対象そのものとは異質な次元に属するモデル・道具に人間という種固有の特徴が現れる。私たちの世界像や技術や産業が作り出す世界はモデル・道具の世界であり、自然そのものではない。人間は神ではなく、自然そのものを直接把握することはない。自然の奥深さや精妙さが何に基づくのか、それに答えることは難しい。だが、それがモデル・道具に現れていることは間違いない事実だ。モデル・道具は人間が作り出すものだが、研究や産業活動などの対象となる自然界や社会との相互作用の下で生成される。だから、それはけっして人間の主観で自由にできるものではない。それゆえ、こういうことが言えるだろう。自然の奥深さや精妙さは、人間固有の性質に起因する面もあれば、自然そのものにも起因する面もあると。



(H19/11/21記)


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