☆ 文化とは何だろう ☆

井出 薫

 「文化の日」は年間を通して一番晴れになる確率が高い日だと言われているが、夏が長かった所為か曇りがちでいまひとつぱっとしない天気だった。ところで「文化」という言葉はよく使われているが、「文化とは何か」と聞かれると上手く答えられない。以前「文化とは何か」と問われて、思わず「英語でカルチャーだ」と答えて大笑いされた。別にジョークを言った訳ではなく、虚を突かれて咄嗟に言葉が出てしまったのだ。

 それはさておき、すでに過ぎてしまったが「文化の日」に因んで、文化について一寸考えてみた。文化とは何だろう。

 文化とは、広い意味では、人類という生物種の本能に基づき成立する集団行動を除いた社会的なすべての集団的生活・行動様式とそれが生み出す諸々のシステムや財を意味すると言ってよいだろう。生物学的本能に基づくものではないから、子供達や新しく該当の社会集団に参入した者は家族や教育機関を出発点とする様々な人為的社会組織の中で自然にあるいは努力して特有の行動様式や思考方法を学び取り身に付けていく必要がある。具体的には、人々の生活様式、礼儀作法を含む社交形式、各種の儀式や祭り、信仰、風習、建造物の様式、趣味嗜好(飲食、衣服、家屋、芸術、芸能、スポーツ)などが文化の概念に包括される。では、この文化とはいかなる特質を持つのだろうか。

 まず文化の特徴として「差異性」あるいは「特異性」を挙げることができる。大学の学部が文科系と理科系に分類されるように、文化とは広義には政治、経済、法などあらゆる社会的活動領域を網羅する。しかし現代では、経済活動や政治活動、明文化された法制度などは「文化」という言葉で括られることはほとんどない。「日本文化と西洋文化の違い」などという表現がごく普通に使われるように、「文化」とは一定の自律した社会的集団単位(便宜的に「共同体」という言葉で表現する)の特徴を表わす概念だと言ってよい。各地方特有の祭りなどはその典型だ。つまり「文化」は個々の共同体特有の性格を有する。なお、ここで「共同体」は必ずしも地域的・空間的あるいは民族的に境界付けられているとは限らない。空間的に散在していても宗教を同じくする者は同じ共同体に帰属しているという意識を持ち行動様式を共有している場合が多い。こういう場合は宗教による共同体が成立していることになり、該当の共同体特有の文化が存在することになる。

(注)今日では、経済、政治、法などは共同体の枠組みを超えて一般的な性格を有するがゆえに、文化という概念からは除外されることが多い。経済はグローバル化し、各国の政治は国連など国際機関の動向や二国間協定、地域協定などを無視して遂行することはできない。法も各国共通した性格を持つようになっている。依然として世界には広く異議を唱える者が存在するとは言え、これらの領域では文化の違いを超えて普遍的なルールが成立しつつあると言ってよい。だからこそ、経済、政治、法などは「文化」という言葉で語られることが少ない。「企業文化」などという言葉があるが、これは特定の企業に属する経営者と従業員特有の行動様式や思考様式が存在することを意味している。確かにそれは企業の業績に結び付くことがある。だが現代の市場経済においては、企業の活動は企業文化よりも市場や政治の状況により多くの影響を受ける。それ故それは本格的な文化と言えるようなものではなく、企業を否定的あるいは肯定的に(どちらかと言うと通常否定的に)論じるときに用いられる比喩的表現と言うべきだろう。なお、学問は普遍的な性格を持つが、文化の一領域として捉えられることが多い。また文化科学という言葉は経済学や政治学、法学などを含む。このあたりの事情はそれ固有の考察が必要だが、「文化」という言葉の使用が多義的であることを示す一例だということを指摘しておくに留める。

 当たり前のことだが、「継続性」と「継承性」も文化の特質に数えなくてならない。一時の流行は文化とは言えない。それは世代を超えて継承されたときに初めて文化となる。

 「無意識性」も文化の重要な特質と言えよう。文化は生物学的本能に基づくものではなく、共同体において意図的にそれを教え、教わる必要がある。しかし、一旦それが身につくと、ほとんどの成員にとってそれは自然なものとなり、一々それを意識することない。それがしばしば文化の異なる者同士の諍いや誤解の原因になる。無意識化した文化の違いでお互いに悪気はないのに相手を傷付けたり不快にさせたりする。無意識性、あるいは普通の言葉で言えば「慣習」は文化の重要な特質をなす。

 「継続性」は文化の必須要件であるが、同時に「変異可能性」も文化の重要な要件として挙げられる。生物種が遺伝子の継承により成立していると同時に変異による淘汰が不可避であるように、文化も変化を免れない。生物種では変異は意図的なものではなく偶発的な突然変異として現れ自然環境により淘汰される。文化の場合は偶発的に変化が起きることもあるし、人々の協議や支配者の決断や思い付きにより意図的に変化することもある。さらに現代人がことに重視する創造による文化の変化もある。ここに生物種の変異と文化の変化の明確な違いがある。とは言え、文化の変容も、歴史を振り返る時にはそこに内的連関や必然性、合理性、創造性をみることができるが、変化しつつある状況の真っ只中に置かれた者にとっては、ほとんど出来事が偶発的で不合理な出来事の連続として現れている。創造と呼ばれる出来事も多くは偶発的なものに過ぎない。それは現代においても変わることはない。10年前までは携帯で電話をする者を異様な目でみる者が多かったが、今ではそういう者でも必死になって携帯でメールを打っている。こういう点では、文化の変化は自然界の出来事である生物進化と類似性を持っていると言える。ただしこの点は過度に強調されることが多く注意を要する。文化の歴史的・地域的変化を生物種の進化の延長線上で捉えることはできない。

 他にも文化の特徴はたくさんあろう。文化が高度に分節化した言語に基づく「象徴性」や「記号性」を有することも指摘しておかなくてはならない。特に生や死、さらには生殖行為を象徴化することは自然から文化への移行を考察する上で重要だ。(たとえば、文化が成立することで初めて生殖行動は象徴性を有する性行為となる)だが、これ以上は筆者の力がとうてい及ばない領域に入っていくことになるので、文化の特徴を列挙するのはこれまでにして、最後に文化の存在意義についてごく掻い摘んで説明しておこう。

 文化の決定的な存在意義は、それが人間という存在を自然から引き離すということにある。人間以外の動物種にも、社会という概念が適用されることはある。しかし、体系的な文化を有するのは人間だけで、体系的な文化を有することで初めて、人間は自然的な生物集団「群れ」であることを超えて社会的な存在となる。そして、社会的な存在となることで、人間は生きるために不可欠な諸々の財や資源を得るための活動を、単なる本能的な活動から汎用的で柔軟な機能を持つ「労働」へと高め、さらにその進化した形態として「産業」と「文明」を生み出す。文化は広義には政治、経済、法などを含むが現代ではこれらの領域は文化とは異なる独自な領域として語られることが多いと述べたが、社会における政治、経済、法などの自律的な領域の成立は、ただ文化を有して自然から相対的に独立した人間にのみ起きうる。

 このように文化とは人間を自然的な生物種の一つとしての「人類」を超えて社会的な存在へと導く鍵となる存在と位置付けることができる。

 こうして考えてみると「文化の日」なるものを定めたことは誠に卓見と言えよう。日本文化の特徴は何かと聞かれて答えられないのが日本人の欠点だと指摘されることがあるが(筆者も答えられない。突然尋ねられたら「日本語を話すことだ」と答えてしまいそうだ。)、「文化の日」を祝日として定めたことで少しは汚名を晴らすことができたと言えよう。



(H19/11/4記)


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