☆ 国家、法、常識 ☆

井出 薫

 法は常識を明文化したものだと考えることができる。だが、その一方で、常識とは人々の思考や行動に法が内面化したものだと言うこともできる。法と常識はそれゆえ弁証法的な関係にある。常識が法として明文化され、明文化された法が人々の常識を育んでいく。死刑制度は日本では支持する人が多いが、一度廃止されれば、いずれ死刑は認められないというのが日本人の常識となるだろう。

 とは言え、法と常識の関係はヘーゲル的なものではない。ヘーゲルにとっては絶対精神の自己運動の必然的帰結である国家とそれを支える法は人間を超越した存在であるが、国家も法も私たち現実に生きる人間の営みから生まれ、継承されてきたものだ。

 確かに、私は私の意志で日本国籍を持ち日本の法を遵守する義務を有する者として生まれてきたわけではない。日本国とその法律は私の意思とは無関係に私の前に存在していた。その意味では、法と国家は私にとって超越的な存在と言えなくもない。私が日本人であることを私の運命だとみることもできる。

 しかし、人は国籍を捨てることができるし、他者との協力の下に国家を根本的に改革すること、さらには国家を解体することすらできる。人は、国家や法、それを生み出した歴史に操られる無力な存在ではない。人が歴史を、国家を、法を作り出していく。

 とは言え、人々の常識を背景に持つが故に国家と法は圧倒的な力を有する。民主的な国家のように、抵抗する者をあからさまに弾圧するような真似をしないところでも、目に見えない力が抵抗する者をじわじわと弱体化させていく。だから改革は極めて困難であるか、さもなければ破壊的なものとなりがちだ。

 しかし、逆に言えば国家も法も人々の常識を背景としているが故に、常識が作られ再生産される場所である人々のコミュニケーションと共同作業の現場から、国家や法を改革していく道を見つけることができる。私たちは強くはないが、歴史を含む既成事実に抵抗できないほど無力ではない。



(H19/10/27記)


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