☆ 現代経済学の有効性と限界 ☆

井出 薫

 書店とパソコンショップに買い物にいき、書籍とソフトを購入するつもりで出かける。昼食も取る予定だ。順番は決めていなかった。ときたま最初に書店に入る。1冊9千円と高いが以前から興味を持っていた分野で非常に優れた論述がなされている本を目にする。書店に入ったときは出版されたばかりの千円のミステリーを買うつもりだったが、立ち読みしているうちにどうしてもこの本が欲しくなる。結局1万円を支出して、この本とミステリーと両方を購入することにする。次にパソコンショップに入りお目当てのソフトを見つけるが8千円する。すでに財布のお金は残り少なくなっている。8千円のソフトを購入するお金がないわけではないが躊躇する。このソフトがなくても当座は困らない。そこでソフトの購入は止めにして、特価でお買い得な3千円のUSBメモリを購入する。パソコンショップを後にして昼食を取るために店を探す。すでの1万3千円を支出しているので、いつも入る美味しいが昼食には少し値段がはる寿司屋を敬遠して、千円で大盛りのカツ丼が食べられる店に入りカツ丼を注文する。

 もし、書店に入る前に昼食を取ることにしていたらどうなっただろう。寿司屋に入りいつもの寿司を注文して2千円を費やしていた。そして次にパソコンショップに入っていたら、8千円のソフトを購入していた。おそらくお買い得な3千円のUSBメモリも購入しただろう。それから書店に入ったら、おそらく9千円の学術書を買うことはなかった。

 経済学では、消費者は効用を最大化しようとすると仮定されている。ところが、この事例では、店に入る順番により買うものが異なっている。最初の例では、9千円の学術書、1千円のミステリー、3千円のUSBメモリ、千円のカツ丼を購入している。締めて1万4千円。2番目の例では、2千円の寿司、8千円のソフトと3千円のUSBメモリ、1千円のミステリーを購入することになる。こちらも使ったお金は同じ1万4千円。さてこの二例で得た効用は同じなのだろうか。一般的には同じとは言えない。もし最初から同じ店でこれらの商品のすべてが手に入るのであれば、どちらか一方を選択するか、あるいは全く別の選択をしたと考えられる。だとすると効用最大化の仮定は一般的に成立しない。

 人は効用を最大化しようなどと一々考えて行動しない。ボーナスがたくさん出てお金があるときは衝動的に無駄なものを買う。DVDやCDをパッケージ写真や説明に惹かれて衝動買いし、家で視聴してがっかりしたという体験は誰でもあるだろう。ところが性懲りもなく同じ失敗を繰り返す者は珍しくない。アイドルオタクやアダルトビデオマニアはほとんどそうだろう。ショッピングをしていて気に入った服があるとすぐに購入するが、一度着ただけで思ったほどではなかったと気付き、そのまま洋服棚に眠らせておくか、ヤフーオークションで安く売ってしまうということを繰り返している人の話しを良く耳にする。このような事例は効用最大化などを考慮していないことを示している。そして、これは特殊なことではなく一般的なのだ。効用最大化を求めているとしても刹那的な気分で決めているだけで、けっして合理的な考察をしているわけではない。

 この他にも、効用という概念には難点が多い。まず効用は購入して初めて分かる。美味しいと期待した食べ物が不味いと分かる、買った服が似合わない、パソコンは自分には役立たない、こういうことは購入した後に分かることで、購入の前に計算することはできない。購入に先立つ効用とはあくまでも漠然とした期待感に過ぎない。そして多くの場合裏切られる運命にある。また、リンゴを好きだから食べる者と、身体に良いと思うから食べる者とでは、効用の質的性格が異なり、代替財が全く異質なものとなるが、こういうことは通常配慮されない。

 消費者と較べて、生産者である企業は利潤最大化のために合目的的な行動を取ることが多い。とは言え、広告宣伝費などは合理的な考察に基づいて支出しているとはとうてい思えない。赤字のプロ野球球団経営が広告宣伝効果と比較して利益があるかどうか判定するのは容易ではない。いや誰も判断できないだろう。また、リスクが大きいから止めた方が良いと社内外から指摘されながら、投資して大失敗をすることもある。企業もまた往々にして利潤最大化が行動の指針になっていない。

 経済学は仮説を設け、抽象的なモデルを作り、そこから現実の経済現象を理解する手掛かりを得ようとする。だから現実の消費者や生産者並びに政府と合致しない仮想的な消費者、生産者、政府を想定してモデルを作ることが無意味だとは言えない。物理学でも、私たちの周囲には摩擦のない場所など存在しないにも拘わらず、摩擦がないと想定して基礎理論を構築する。相互作用をしない素粒子は存在しないが、最初に相互作用をしない素粒子の理論を構築して、その後で相互作用を取り入れて現実を説明できる理論を構築する。だから、経済学が現実と合致しない仮説を基にして理論を構築しているからと言って、経済学が間違っていることにはならない。大切なことは、現実を理解するため並びに経済政策や経営計画を立案する上で有効な理論的基盤となっているかどうかだ。

 この点は色々と異論があるところだろう。現実を理解し適切な政策を立案するための基盤となっていないと言う人もいるし、十分に有効な基盤となっていると言う人もいる。経済学者は当然のことながら(マルクス経済学者を除けば)現代経済学の有効性を信じている。一方で社会学者や哲学者は否定的な見解を取る者が少なくない。マルクス経済学者も、現代経済学はブルジョア経済学で、(虚偽意識という意味での)イデオロギーに過ぎないと批判する。

 どちらが正しいかは容易には判断できない。ただ経済学と物理学など自然科学との間には大きな違いがあることを考慮する必要がある。

 摩擦のない世界は周囲には存在しないが天文学の対象はほとんど摩擦のない世界だし、地上でも特殊な機械を使うことでほとんど摩擦のない状態を作り出すことができる。相互作用のない理論に相互作用を導入する確実な方法が存在する。複雑な系では基礎的な理論を構築することは容易ではないが、幾つかの共通性を発見して、現象の背後にある基礎を解明することができる。このように、自然科学では現象を説明する強力な理論を構築する方法があり、それに基づき信頼性の高い理論を構築することができる。−但し、その方法とはけっして単純でマニアルに纏めることができるような類のものではない。−

 また、物理学にはエネルギー保存則や運動量・角運動量保存則、電荷の保存則など重要で普遍的な保存則とそれに対応した対称性の理論が存在する。単純な系であろうと複雑な系であろうと、どちらでもこれらの基礎的な保存則・対称性の理論は厳密に成立する。物理学以外の自然科学や科学技術の研究対象でもこれらの基礎原理は成立し、これらの基礎原理を研究の指針として活用することができる。また、理論がこれらの基礎原理と矛盾するようであれば、修正が必要であるか、近似的にしか有効ではないことが分かる。しかし、経済学など社会科学には、普遍的な保存則や対称性の理論に相当する基礎的理論は存在しない。そして、そういう基礎的理論が発見されることはおそらくない。

 さらに、経済学が扱うのは人間の社会的行動であり、単に物理学的な系のように構造と運動を記述すればよいというわけではない。このことが社会科学と自然科学との決定的な違いとなる。相対論や量子論、宇宙論、複雑系、生物学などでは私たちの常識とは全く懸け離れた結論が得られることが珍しくない。だが私たちはその事実を淡々と受け入れることができる。それは自然現象が何の意味も目的も持たないからだ。ただ「すべてはそうなっている」と言うだけですむ。しかし人間社会の様々な現象はそうはいかない。必ず意味が問われる。ある人物が犯罪行為を行なったとき、ただ「それが事実だ」と言うだけではすまされない。私たちは犯罪行為の動機と目的を追及する。経済学でもこのことに変わりはない。経済学など社会科学は、単に物理学のように自然現象の構造と運動を数学的に記述するだけではなく、人々の行動の意味・動機・意図などを理解しなくてはならない。

 これが経済学と自然科学の決定的な違いを生み出す。「効用」という概念が導入されたのも、人々の行動の意味を問う必要があるからだとも言える(例:「なぜ役に立たない詰まらない哲学書を買うのだ」、「私はそれが好きだ=私にとっては効用がある」)。だが、意味や目的の解明には自然科学的手法は通用しない。そして、このことが、物理学の普遍的な保存則・対称性に相当する基礎的な理論が不在である理由と考えられる。経済学を含めて人間科学・社会科学は、主観性、歴史性、倫理から完全に自律することはできない。だから時間と空間を超越した普遍的な基礎理論は存在しえない。しかし現代経済学はこのような事情に十分な配慮をしていない。

 このような問題点はあるが、総じて言えば、現代経済学は有益だと言ってよい。多くの経済現象を現代経済学の枠組みから理解することができるし、経済学を援用して経済政策や経営計画を立案実行することで一定の成果が得られるのも事実だ。ただし経済学は幾ら進歩しても物理学のような精密科学とはなりえない。また意味を問う学問であるという点で自然科学とは異質な学問領域に留まる。

 経済学は経済現象を説明するために使用されると同時に、人々に経済政策や経営方針の妥当性を説得するために使用される。寧ろ後者の役割の方が重要だろう。現代経済学の祖であるアダム・スミスの著「国富論」でも経済学とは結局経済政策論であることが示唆されている。「物理学など自然科学は説明をするための学問、経済学など社会科学は人々を説得するための学問」と言っても不自然ではないかもしれない。

 それゆえ、経済学の予測が大きく外れたり、理論的に不整合が見つかったりすることがあっても、経済学が直ちに否定されることはない。経済学の思想が現実社会に大きな影響を与えているからだ。その一方で、そこに経済学の限界がある。経済学など不要と社会が考える時代が来る可能性は否定できない。そのとき経済学は、物理学のように「たとえ人々が物理学を知らずとも、あるいは無視したとしても、それが真理であることに変わりはない」と主張することはできず、過去のものとして放棄されることになる。



(補足1)
 経済学は希少性があり代替的使用が可能な財・資源の配分を考察する科学であると言われることがある。だが希少性とは何だろう。ジンメルは語る。「それは使用されるからこそ希少性なのだ」と。使用されないものはたとえ希少でも、希少性という概念に包摂されない。それゆえ経済学は相対的なものに留まる。

(補足2)
 私たちは少人数の共同体を作り、経済学の理論と全く合致しない共同生活をすることができる。そしてそれは現代の市場競争の社会に生きるよりも幸福でありえる。

(H19/10/15記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.