☆ 自然法 ☆

井出 薫

 自然法なるものが存在するだろうか。物理法則と同じような意味で存在するわけではない。人は、「(正当防衛と認められる場合や戦場での戦闘員同士の戦闘を除いて)人を殺してはいけない」という法ですらしばしば破るが、物理法則を破ることはできない。

 自然法など存在せず、具体的な規範や法は、それぞれの時代と地域に恣意的に登場するものに過ぎないのだろうか。だが、そうだとすると、私たちは道徳相対主義を認めることになる。殺人が犯罪ではない社会がありえるし、そういう社会と出会っても、原理的にその社会を批判する根拠がないことになる。だがそれは私たちの直観に反する。

 自然法は共通の理念として社会に存在すると考えることができる。自由な社会では、人により理念は様々だが、それでも、多数の者が賛同する理念とそうでないものとの差ははっきりしている。

 「政府は私企業や個人の経済活動に介入してはならない」、「自然保護は他の如何なる目的よりも優先されなくてはならない」こういう理念は賛同する者も反対する者もいて、どちらが正しいかを決定することは困難で、時と場合によるという面もある。

 しかし、「人を殺してはならない」、「人の物を盗んではいけない」こういう理念は大多数の者が賛同する。民主的な社会ではこれらの理念に反対しても罰せられることはないが、理念に反するような行動を取れば罰せられる。また理念に反する行動を取ると予測できる正当な根拠があれば、行動の自由が制限されることもある。そしてそういう措置を大多数の人が支持する。

 このように理念には2種類あり、後者のような理念を自然法とみなすことができる。そして自然法は全ての者を拘束する大原則と捉えることで、社会の秩序と人々の平和が維持され、罰則を規定する法、罰則を決定し執行する組織の正当性が基礎付けられる。

 但し、自然法は、時間的にも空間的にも普遍的な自然法則とは異なり、時代と地域、思想、宗教などが異なることで違いが生じることは認めなくてはならない。だから正義の名の下に紛争が生じることもある。

 人は自然法則に従うのに教育はいらない。自然法則を知らなくても自然法則に従う。だが、自然法を現実化するには実定法として制度化することが先ず必要で、その権威を維持するには、絶え間ない教育と説得、法の正当性に関する吟味と協議が欠かせない。そして合意形成に失敗して法が崩壊し社会が混乱することもある。

 だが、それでも「自然法は存在する」と考えるべきではないか。「自然法などない、あるのは恣意的な権力と法律だけだ」ということになると、私たちは暴力から身を守る思想的な道具を有しない無力な存在になる。自然法を神格化することなく、その存在を認めていこう。

(H19/8/24記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.