☆ 心の科学はどこまで可能か(試論) ☆

井出 薫

 脳研究の進歩、情報理論や情報技術の普及で、心を科学的に解明することに人々の関心が集まりだしてきた。その証拠に書店で関連書籍を目にする機会が著しく増えてきている。(注)なお本稿では特に断らない限り、科学とは自然科学を意味するものとする。

■ 心の研究についての様々な立場 ■

 心の科学的研究に関しては、心を科学的に解明することはできないという立場と、心は脳の働きであるから科学的に解明することができるという立場に別れ、論争が繰り広げられている。だが、心を科学的に解明することができるかどうかは、心の科学的研究に何を期待するかによる。

 赤いものを見ているとき、脳で何が起きているか科学は解明することができる。その成果を利用して、脳に一定の刺激を与えて赤いものを見ていないにも拘わらず赤いものを見ているように感じさせることも可能だろう。鬱のとき脳がどのような状態にあるか科学は解明でき、鬱を解消する方法を教えることもできる。不完全だが、医療現場ではその知見が利用されている。

 だが、赤いものを見ているとき、どうして赤いという感じを持つかという問いに科学が答えることができるとは思えない。「赤い」という感じ、この意識が持つ独特の質感(クオリアと呼ばれる)を科学的に解明することができる、それがこれからの脳科学と情報科学の重要な課題だと、(近頃NHKのキャスターでも御馴染みの)茂木健一郎氏などは主張しているが、これは不可能だ。赤いと感じているときに脳がどのような状態にあるか、どのような働きがなされているかを知ることはできるが、科学はそれを脳という物質の物理学的因果過程として一般的な法則から説明するのだから、クオリアが生じる原因を説明することはできない。赤いという感じがあるときの脳の状態を解明することと、赤いという感じが生じる原因を解明することとは全く異なる。「赤いという感じ」は物理学的な属性ではなく、脳の物理学的な因果連関の記述体系に組み込むことはできない。もし、それができるとするならば、科学の体系の中に、物質的な要素とそれとは独立した心的な要素を取り込むことになる。だがこのような二元論は、脳の科学的研究でクオリアの問題を含めて心が解明できると考える者たちの唯物論的な立場と合致しない。

 さらにブレンターノやフッサールなどの哲学者が指摘しているとおり、心の本質的な特徴はクオリアよりも志向性(注)にあり、クオリアを説明できたとしても、志向性が説明できない限り、心の解明に成果を上げたとは言えない。

(注)心的現象は対象を含むということ。たとえば「思考」を取り上げると、孤立した「思考そのもの」なるものは存在せず、常に「思考」とは「何かの思考」になる。「「宇宙がどうなっているか」考える」、「「人間はどうあるべきか」考える」、「「38+17は幾つになるか」考える」などのように「思考」とは何らかの対象について考えることであり、この「何か」が存在しない純粋な思考などない。意志・意図なども同じ性格を持つことは容易に理解できよう。ほとんどすべての意識現象はこのような対象を含むという性格を有する。痛みなども、歯が痛い、指の先が痛いなど、「何かが痛い」のであり、孤立した「痛み」なるものは存在しない。−心の痛みなど微妙な事例はあるが。−このような心の諸現象が有する性質を志向性と呼ぶ。心的現象では志向性が本質であることは、具体的な心的現象を考察すれば、すぐに納得がいくだろう。

 従って、心が科学で解明できるかどうかは、科学にどこまで期待するかによることが明らかになる。志向性やクオリアを解明することが心の科学にとって必須の課題だとするならば心の科学は不可能となる。しかし、心的現象の基盤と考えられる脳のメカニズムを解明することで十分に意義があり、それが心の科学の課題だとするのであれば、心の科学は可能であり、極めて有望で人々にとって有益な学問となる。

■ 心の科学の限界 ■

 いずれにしろ、心の様々な現象を科学で解明することには限界がある。そのことを3つの観点からここで説明しよう。

 心を語る言葉と科学的な用語とは異質であり、心を語る言葉は科学的用語に還元することはできない。「痛みを分かちあう」という表現を私たちは容易に理解するが、「(痛みを感じているときの)脳状態を分かちあう」という表現は無意味だ。脳のことをまったく知らなくても、私たちは心を語る言葉を使ってコミュニケーションしているが、すでに、このことに心と脳に決定的な違いが存在することが示されている。

 赤いものを見て私たちは赤いと言う。同じことを適切な入出力装置を具備したコンピュータで実現することができる。現在のところコンピュータやロボットの技術水準は低く、人間にはとうてい及ばないが、人間ができることをすべてできるコンピュータやロボットを開発することは原理的には不可能なことではない。人間と同じようなロボットが登場したときに、そのロボットは心を持っていると言えるだろうか。これを科学的な基準により決定することはできない。それは一般論的には社会的なコンセンサスにより決まり、個人的には各人の趣味や状況により決まる。ご存知の方も多いと思うが、SF映画の最高傑作と称されるS・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」では人間を超える知能を持ち感情も有するようにみえるコンピュータHALが登場する。HALが制御する宇宙船の船長は、「HALに感情があると思うか」と尋ねられたとき、「あると思った方が遣りやすい」と答えている。HALがすべてを制御する宇宙船で暮らす船長の生活環境からすれば、HALを人間のような感情を持つ存在と考えた方が遣りやすい。そして、やがてHALと船長は人間同士の戦いのように生死を賭けた争いを繰り広げる。HALの心臓部とも言える制御基盤を破壊する船長に向かって「止めてください」と哀願するHALの声はとても心を持たない単なる機械とは思えない。だが、スクリーンに映し出されるHALは所詮電子機器の集まりに過ぎない。
 高度に進歩したコンピュータやロボット、他の生物が心を有するかどうかを決めるのは、社会とそこに属する感情を持つ個人であり、科学ではない。

 子供を叱っている母親の行動を科学は説明することができる。しかし、母親が何故子供を叱っているのかを説明することはできない。母親に叱っている理由を尋ねればこう答えるだろう。「この子が悪いことをしたからです。」と。「悪いこと」とは何だろう。「悪いこと」と呼ばれている子供の振る舞いを科学は記述することはできる。だが科学的な基準のどこにも「悪い」は出てこない。また母親が「叱る」ということも出てこない。私たちは状況を調査して、母親が子供を叱ることが妥当かどうか判断することができる。子供が悪いことをしたと母親は主張するが、実は子供の振る舞いには落ち度はなく、母親が不機嫌で子供に八つ当たりしていただけということが当然ありえる。そのときは、私たちは母親を諌めるだろう。何が悪いことで、何が叱ることを正当化するか、こういう問題で科学的なデータを幾ら集めても答えはでない。これは倫理の問題であり、科学の問題ではない。心的現象の大部分は、科学的な説明を要求するものではなく、倫理的な観点からその妥当性が問われるような性質のものとなる。私が何らかの理由で心に疚しさを感じているとき、私がたとえ脳科学の専門家だったとしても、私の脳の状態がどうなっているかなどということはどうでもよく、自分の行動が倫理的に妥当かどうかを思案している。

 このように、記述する言葉の違い、他者の評価、倫理的な性格、この3つの観点から、心の現象の多くは科学的研究で解明されるものではないことが明らかとなる。(注)

(注)注意深い読者ならば、私が「3つの観点」と述べている事柄が、実際は一つに纏めることができるのではないかと感じるかもしれない。実際、この3点には共通性がある。記述の差は、倫理と科学の言葉の違いに関連する。コンピュータなど他の存在に心という概念を帰着させるかどうかは、ある意味で倫理的な決断だ。つまりここで述べた3つのことはすべて心の持つ倫理的な性格に関連している。しかし、「痛み」は倫理とは些か趣を異にするし、コンピュータに感情を帰属させるかどうかという問題も、倫理とは別の(たとえば)経済学的な配慮により決まることもあろう。従って三番目の観点にすべてを還元するよりは、三つの観点があるとしたほうがよい。ただ、倫理的な性格こそが心の本質をなすということは間違いない。

■ 心の科学の意義 ■

 しかしながら、このことはけっして心の科学が不可能であるかとか、心(あるいは意識)は科学では解明できないということを意味しない。心という現象には、科学で解明できる領域がたくさんある。たとえば鬱病やパニック障害、統合失調など精神的な疾患の生物学的な基盤を科学は解明して、良い対処方法や薬物などを発見・発明することができる。認知のメカニズムを解明して、それを私たちの実生活や産業、医療に活用することもできる。心の科学の成果を適切に活用すれば、私たちの生活はよりよいものとなる。だが、たとえば、鬱病の薬を使うか、病状が長引いても薬を使わずに治すかという決断は科学の問題ではなく倫理的問題となる。科学と倫理は完全に独立したものではなく相互に影響しあうとは言え、倫理を科学に還元することはできないし、するべきでもない。そして、私たちの心とは基本的に倫理的な存在なのだ。

■ まとめ ■

 心の科学は可能で、その成果は私たちの生活をより良いものにする可能性を秘めている。だから心を科学の研究対象から除外するべきではない。とは言え、心の科学にできることには多くの点で限界があることを忘れてはならない。
 重要なことは、「心の科学」とは何を研究対象・領域とし、どのような方法で研究し、その成果をどのように使用するべきものなのかを先ず明らかにすることだろう。これは今後の課題として残しておく。

(H19/7/28記)


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