☆ 私とは特別な存在か ☆

井出 薫

 新宿駅改札出口の雑踏を歩いている。視界を遮る人々がまるで私と出会うために存在しているかのような錯覚に陥る。

 視界に現われる人たちはすべて私の想像物に過ぎないのではないか。デカルトは本当にそこに人が存在するかどうか疑わしいと指摘する。

 では、人々を見ている(想像している)私は存在するのか。勿論存在する。存在しないとすると、たとえ錯覚だとしても「見ている」という行為が成立しない。「見ている」とは「誰かが見ている」ということだからだ。

 だが私とは誰だろう。私は私の身体ではない。私は私の手を見ることができるが、この手が本当に存在するかどうか疑わしい。背中や後頭部、さらには一番気になる顔は鏡を使わないと見ることができない。だから尚更その存在は疑わしい。鏡はしばしば錯覚の原因になる。

 だとすると、私とは私の身体とは別な存在、つまり精神だということになる。デカルトはそう考えた。

 哲学的に考えるとデカルトの結論は拒否しがたいものに思えてくる。

 だが、そのとき、私の背中を叩く者がいる。振り返ると秋田に暮らす友人がそこにいる。偶然新宿で鉢合わせしたのだ。言葉を交わし軽く食事に行く。そのとき、私はもはや特別な存在ではなくなっている。それが精神であるか身体であるかなどということはどうでもよくなっている。私と友人の非対称性など、話題になることも、脳裏に浮かぶこともない。ビールを飲み、つまみを口にするとき、私も彼もごく普通に身体を持つ存在としてレストランの椅子に腰掛けている。

 哲学的にものを考えるとき、兎角、人は自分の存在と思考を過大視する。だが、日常生活において、私の思考も語る言葉も別に他の者のそれと大して変わるところはない。そして、友と語らい仕事をする日常生活こそ私を私として特徴付ける場所なのだ。私は特別な存在ではない。友との偶然の出会いと語らい、それがそのことを証明している。


(補足)

 「私は精神だ」というデカルトの主張と「私は特別だ」という主張には飛躍がある、「私と友人の非対称性」の「非対称性」という表現が唐突だという指摘があろう。私が精神であるにも拘わらず、友人は私にとっては物(身体的存在)としてしか現われない。このことが「非対称性」の意味であり、これにより私の存在は特別なものとなる。

(H19/7/11記)


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