☆ 視覚の不思議 ☆

井出 薫

 視覚は科学者だけではなく哲学者や芸術家も魅了してきた。

 物体から放射ないし反射した光が網膜の視細胞を刺激することで視覚は成立する。では、なぜ視細胞に刺激を感じるのではなく、光を放射した物体がある場所に、その物が見えるのだろう。

 そこにある物がそこに見えるのは当然だと思えるかもしれない。だが、光が視細胞を刺激して視覚が生じることを考えると、当然ではなく寧ろ不思議だと言わなくてはならない。足を踏まれたとき足に痛みを感じるだけで足を踏んだ人間が分かる訳ではない。それに対して視覚は刺激ではなく刺激の原因(物が特定の場所に位置すること)を認知している。

 だが、幻が見えることもあるし、正しい場所とは別の場所に物が見えたり、物の大きさや長さを錯覚したりすることもある。つまり、刺激の原因を認知していると言っても、視覚はありのままの世界を直接映し出しているわけではない。

 視覚がありのままの世界を映し出しているのではないことは、視覚の限界からも明らかになる。物体からは膨大な拡がりを持つ周波数の光(電磁波)が放射あるいは反射されているが、そのうちで人間が感じ取ることができるのは可視光領域と呼ばれる凡そ0.4から0.7μmの光に過ぎない。赤外線カメラで夜の様子が鮮明に撮影できることから分かるとおり、夜間でも多くの物体から赤外線が放射されているが、人間の視神経は感知することができない。すべての領域の光を感じ取ることができる者が存在したら、世界の見え方は人間のそれとは全く異なるものとなろう。

 このように視覚は不思議な性格に満ちている。ところで、自然科学はこの視覚の現象をすべて説明することはできない。自然科学が進歩すれば、光を受け取った視細胞の反応に始まる脳神経系の一連の活動と身体器官へのフィードバックをすべて解明することが(少なくとも原理的には)可能となる。錯覚や幻視のメカニズムも解明できるだろう。しかし、なぜ物がそこに見えるのかという最初にあげた最も単純な問いには答えられない。

 自然科学は、自然現象を因果的な連関という観点から整理し、それを自然科学特有の用語でモデル化し、そこに隠されている自然法則や基礎原理を探究し発見する。そして法則や原理に基づき個別の現象を説明する。正しい自然科学の理論に基づく説明は極めて正確だ。だが、逆に言えば、自然科学で答えることができる質問は、自然科学の用語を使用して因果的に説明できることに限られる。だから視覚に関する質問で、自然科学が答えることができるのは、たとえば「机がどこにあるか指で示してください」と質問したときに相手が目の前にある机を指差すというような動作を、物理的な因果関係で説明することに限られる。何故そこに見えるのかという質問は、自然科学の守備範囲の外にある。自然科学は万能ではないのだ。

 自然科学が万能でないことが、この「見る」という最もありふれた現象に示されている。「見る」という活動には、自然科学の用語と理論に還元されない何かが潜んでおり、多くの哲学者や芸術家(たとえばゲーテ)がそれに魅了されてきた。−ただし、哲学が何故そこに物が見えるのかという質問に適切な解答を与えられるわけではない。−

 現代人の多くは科学万能主義で、すべてのことが自然科学や自然科学の遣り方を模倣した社会科学で説明できると考えがちだ。だがそれは間違っている。科学が解明できることよりも遥かに多くのことが科学にとって謎として残る。視覚という人間の最も基本的な機能においてすらそうなのだ。そして、科学者に代わって、哲学者、芸術家、宗教家たちが、その不思議な現象を様々な手法で人々の前に描き出す。だが、この事実の中にこそ科学的必然性に還元されない人間の自由が存在する。

 視覚という不思議な現象、ときには、それについて思いを巡らせることも悪くないだろう。

(H19/6/25記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.