☆ 脳の不思議 ☆

井出 薫

 電車の中で本を読んでいる。周囲の雑音はほとんど耳に入らない。だが「井出」と呼ばれるとすぐに気がつく。不思議だ。

 ドライバーでネジを締める。指先に当たるドライバーの感触に注意が向くことはなく、ネジの動きを直接感じる。ドライバーの先に神経が繋がっているわけでもないのに不思議だ。

 人間の脳は無意識のうちに膨大な情報を処理して独特の認知空間を作り出す。脚を失った人が存在しないはずの脚に痛みや痒みを感じることがあるが、これは脳が独自の空間を無意識のうちに作り出していることを示している。

 脳の多様性とその処理の精妙さは驚異的だ。存在しない脚に痛みを感じるのは一件不合理に思えるが、そのお陰で義足を使いこなすことが出来るようになる。素晴らしいメカニズムだ。現在の機械にはとうてい真似できない。

 脳はどのようなシステムになっているのだろうか。コンピュータのソフトウエアは、アプレットやDLL、ドライバソフトなど多数のプログラム部品から成り立っている。人間の脳も様々な機能に特化したモジュールから構成されているという研究報告がある。

 だがコンピュータと人間では決定的な違いがある。コンピュータにインストールされた多数のプログラム部品が調和して動くのはOSが存在するからだ。OSが存在しなければ、コンピュータは動作しない。一方、人間にはOSに相当するような部分は存在しない。前頭葉が人格の統一性を維持していると言われているが、身体の制御から高度な知的活動に至るまで無数の脳の働きをすべて統制しているとは考えられない。前頭葉に障害を持つ人は人格的な欠陥を示すことがあるが、それでも多くの複雑な作業を巧みに処理することができる。

 すべてを統制するOSがないのに、コンピュータよりも遙かに膨大でかつ精妙な機能を破綻なく処理している脳は驚異的な存在だ。いや、おそらくOSが必要であるというところに現在のコンピュータの限界がある。統制原理であるOSがなくても多数のプログラムが調和して動作できるようになったとき初めてコンピュータは人間に近づくことになる。

 将棋では負ける日が来るのは近いが、まだまだ人間はコンピュータよりも遙かに優れている。ただその優れた能力がどのようなメカニズムに基づき発揮されるのか、そこまで知ることはできない。知ることができれば人間を超えるコンピュータがすでに現実のものとなっていただろう。人はコンピュータには優るが、やはり自然にとうてい及びもつかない。

(H19/4/2記)


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