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井出 薫
私たちは話し言葉と書き言葉をはっきり違うと考えている。 だが、次のような事例を考えると、どうなるだろうか。 @普通に話しをする→話し言葉 A無声で唇の動きだけ話し言葉を真似る B手話あるいは身振り言語 C一文字だけ書かれた板を次々と相手の前に提示する。たとえば、「あ」、「い」、「し」、「て」、「い」、「る」という板を次々と掲げる。 D書物→書き言葉、文字の集合 このように、話し言葉と書き言葉の間には様々な中間的なニュアンスの言語形態がある。つまり話し言葉と書き言葉は断続した二項ではなく、連続して移行しあう言語形態の両端とでも言うべきものなのだ。 おそらく、人間の思想とか、言葉とかは連続的に変化していく。デカルト、ニュートン、ライプニッツ、ガウス、ダーウィン、アインシュタイン、フォン・ノイマン、こういう大天才が登場して、私たちの知を一新すると考えられている。だが、ニュートンとライプニッツが微積分学発見の優先権を巡って争ったように、偉大な思想が生まれるときには、必ず、先駆者がいて、優先権を争うライバルがいる。ニュートンもダーウィンも突然変異で生まれたのではなく、時代が成熟していく中で、歴史の象徴として召喚されることとなったのだ。 言葉の変化や文字の誕生の過程は、一つの連続的な過程で生じた出来事であり、そのような視点から語るべきだろう。しばしば取り上げられる「無文字社会」という概念自身がすでに一つの囚われた考え方なのかもしれない。 |