☆ カントの意義と限界 ☆

井出 薫

 「机の上にパソコンがある」、「水を熱したら水蒸気になった」こういう認識はどのように成立するのだろうか。

 客観的な世界が存在して、その世界のあり方を意識が映し出し、それを加工して認識が成立するという立場があり、ときに「反映論」と呼ばれる。しかし反映論は正しいとは言えない。

 「机」と私たちが認識する物体がある。それを私は目で見て、記憶と照らし合わせて「机」と認識することはできる。パソコンも同じだ。しかし「上に」という関係はどのようにして認識するのだろうか。世界の中に「上と下」などという関係は存在しない。それは私たちが世界を認識するための形式であり、世界の中にそのような関係があるわけではない。「上と下」という関係は人間が世界を認識するために使用する物差しのようなものであり、私たちが世界から受け取るものではなく、私たちが世界に与えるものなのだ。

 「水」と「水蒸気」は、「机」と同じように、目の前に物体として存在し、記憶と照らし合わせて認識することができる。「熱」も、「机」や「水」のように明確な輪郭を有する物体ではないが、現実に存在する自然現象として把握することができる。しかし、『水を熱した、「そうしたら」、水蒸気になった。』の「そうしたら」という言葉は何を指しているのだろうか。これは、物事を原因(水を熱する)と結果(水蒸気になる)に分けて、それを結び付ける言葉だと考えることができる。しかし、物事が原因と結果からなるということは如何なる観察からも帰結することはない。私たちが見るのは、「水」、「水を加熱する道具を使うこと」、「水蒸気」だけであり、「水を熱したら水蒸気になった」、あるいは、より踏み込んで一つの法則として「水を熱すると水蒸気になる」という命題を、一連の観察から引き出すことはできない。このような命題は、「物事は、「原因」とそれが引き金になり時間的に後に生じる「結果」の連鎖からなる(因果律)」という認識のための物差しを世界に適用することで初めて成立する。因果律も世界から私たちが受け取ったものではなく、私たちが世界に与えたものなのだ。

 このような人間の認識の在り方を吟味して、認識の構造を体系化したのがカントだ。カントは、単純な反映論を排し、人間が世界に与える認識形式を解明して、正しい認識がどのような条件の下に成り立つかを明らかにした。

 カントは、人間の認識構造を、感性、悟性、理性の三段階に分ける。感性は、雑多な印象の集まりに過ぎない感覚的現象世界を時間と空間という形式で整理することで、統一した世界像を作り出す。「上と下」という関係もその形式の一部に属すると言ってよい。カントの感性論は、ニュートンの時間空間概念を基礎としており、20世紀の量子論と相対論という物理学革命で否定されたという意見もあるが、カントの感性が使用する時間と空間はニュートン的時空=ユークリッド時空に限定されるものではなく、より一般的な観点から捉えられた時間と空間であり、物理学革命により否定されるような脆弱なものではない。さらに、カントは、因果律を悟性の純粋カテゴリの一つとして位置付ける。

 このようにして、カントは、人間の認識が、人間が用いる認識形式に基づき成立するものであり、この形式を正しく適用することで初めて正しい認識が得られることを明らかにした。

 理論的認識の問題を解決したカントは、続いて、理論的な認識とは一線を画する場として実践理性の場を確保して、そこでは因果律には還元できない道徳の原理が支配していると論じる。道徳の原理は理論的に明確な理由に基づき正しいと結論付けられるものではなく、端的に正しいのだとカントは考える。たとえば「人を殺してはいけない」という道徳は、「これこれの理由で人を殺してはいけない」というように説明(論証)されるものではなく、「人を殺してはいけない」という絶対的な命令として人に課せられているとカントは言う。そして知的存在者であれば、理由を明確に述べることができなくとも、この命令の正しさは必ず了解できるはずだと指摘する。−これもまたカントの言うとおりだと思われる。一頃「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題が一寸した議論を呼んだが、誰も理論的に完璧な答えを与えることはできなかった。「人を殺してはいけない」という規律は、まともな人間ならば承認するべき道徳規則だとしか言いようがない。−

 さらに、カントは判断力を通じた感性と悟性の調和に美学の可能性を、感性と理性の調和に目的論的世界観の可能性を発見する。こうして、真、善、美の3つの理念が、哲学という学的探究によりその基礎が明らかにされた。そして、その意味で、哲学は、形而上学つまり形を持つ世界(物理的な形而下の世界)を超えた超越論的な場を探究する学問として確立されることになる。
(注)カントの三批判、「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「判断力批判」並びにそれを補足する著作に、ここで論じたカントの哲学体系が描き出されている。

 ここに哲学は他の学問領域とは異なる独自の探究領域を確保することになる。カント以降の哲学は、ヘーゲルのような壮大な存在論を核にした哲学体系もあるが、概ねカントが定めた軌道を巡ることとなる。ヘーゲル的な存在論的体系も、常にカント的な認識論的視点を援用しながら体系構築が進められている。

 カントの時代は実証的な近代科学の興隆期に当たり、哲学的思弁により世界の真実を明らかにすることはできないことが誰の目にも明らかになりつつあった。そのような時代背景の下で、カントは、世界はどうなっているかではなく−それは個別の実証的科学の課題−、世界がどうなっているかを人間はどのようにすれば正しく知ることができるかを明らかにすることこそが哲学の課題だと見極め、哲学に決定的な転換をもたらし、哲学という学問固有の探究領域と存在意義を明らかにすることに成功した。このことは、たとえ、カントの個々の主張が間違っているとしても、けっして消えることのない歴史的な偉業と言わなくてはならない。
(注)カントより以前に、デカルトが「すべてを疑う」という有名な手法を用い、正しい認識の原理を探究したが、デカルトが発見した原理は「(私にとって)明晰判明なる判断に従う」ということでしかなく、何が明晰判明なる判断なのか不明で、認識論としては全く不完全なものでしかない。

 しかし、カントの限界も忘れてはならない。カントは認識ができるのは世界そのものではなく、世界の現象、人間がその中に認識形式を投げ込んだ現象界だけに限られると考える。そして、認識可能な世界を超えた実在そのものは、認識不可能な「物自体」(ディング・アン・ジッヒ)だと主張する。だが、カントは認識できない「物自体」は確かに実在すると言い切る。カントはしばしばドイツ観念論の原点と言われ、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルと連なるその哲学の系譜から、その解釈は一概に間違いではないのだが、基本的にカント自身は唯物論者的と言うべき存在だ。カントが、物理的な世界の実在を疑うことなど馬鹿げていると語り、千里眼などを全くの虚妄、ありえないことだと断言していることからも、それが分かる。だが、それにも拘わらず、カントは、物自体は認識できないと言うのだ。しかし認識できないのに、どうして実在すると言えるのか、説明不可能だ。

 カントにとって「物自体」は理論認識に還元できない道徳規則が位置する場として構想されていると言う面がある。しかし、そのことは「物自体」は認識できないという見解を正当化しない。また道徳を物自体の領域に押し込めることで、道徳の根拠は全く語りえないものとなってしまう。

 カントの主張は、多くの反論に出会うことになる。その代表がカントの最大の後継者であり批判者であるヘーゲルだ。ヘーゲルはただちにカントの矛盾を見抜き、実践と理論認識が相互に影響しあうという現実を指摘して、物自体という概念が虚構に過ぎないことを明らかにする。−カントとヘーゲルの関係を、プラトンとアリストテレスの関係になぞらえることができるだろう−

 しかし、「物自体」という概念が虚構だとすると、哲学という学問が、他の学科とは異なる固有の探究領域と存在意義を持つというカントの構想は崩れてしまうのではないだろうか。だから、ヘーゲルはカントにより存在論から認識論へと重点を移した哲学を再び存在論中心の壮大な体系へと引き戻そうとした。だが、それが不可能であることはカントがすでに証明している。そしてヘーゲルはヘーゲル自身の体系がこれ以上ないほどに素晴らしいものであるがゆえに、もはや(存在論という次元では)哲学に将来はないことを自ら明らかにしてしまう。ヘーゲルの後、マルクスは、ヘーゲルが最後の哲学者であり哲学には未来はないと宣言する。キルケゴールは、ヘーゲル哲学は、人間にとって最も重要な問い、誰もが無関心ではいられない「人は如何に生き死ぬべきなのか」という切実な問いにまったく応えられないと断罪する。ニーチェは、カントとヘーゲルにその頂点を示すプラトン以来の哲学(西洋形而上学)は、生の意義を否定する歪んだ思考表現に過ぎないと断定する。

 ある意味、哲学は、カントとヘーゲルがそれぞれ正反対の遣り方で、その存在意義と探究領域を確保しようとしたことで、却って、固有の探究領域と存在意義がないことを露呈してしまうことになったと言えるかもしれない。

 カントが人間の認識はありのままの世界を映し出すようなものでなく、人間特有の認識形式に基づき描き出すものであると考えた点は正しい。そして、その認識形式とその世界への付与は、その性質から他の実証的な学問や数学で解明されるものではないと考えたのも正しい。だが、哲学と他の学問や人々の現実生活との間に厳密な境界線を設定できると考えた点で間違っている。認識不可能な「物自体」を実在するものとして、そこに実践理性固有の課題があると構想したことにそれが如実に現われている。認識不可能だが思索することができる領域、そこにこそ哲学の基盤があるとカントは考える。だが、物自体は認識できないのではなく、カントが示したような遣り方で現実に認識される。ただ認識活動の成果と認識の対象とが同一ではないということに過ぎない。万有引力の法則など現実の物理世界のどこを探しても存在しない。ただ、現実の物理世界が万有引力の法則という形で認識されるに過ぎない。だが、それは現実の物理世界そのものが認識不可能であることを意味するのではなく、万有引力の法則という形で認識されることを示しているのだ。

 それゆえ、哲学と他の学問や現実生活との境界線は曖昧にならざるをえない。そして、個別の実証科学が進歩し成果を挙げていき、産業が発展拡大することで、人々がどんどん世俗的になっていく中、哲学の存在意義が薄れていくことは避けられない。カントはその流れを押し留めたかったのだが、それはやはり無理なのだ。

 しかし、だからと言って、哲学が無意味だということにはならない。カントが確保したと信じた哲学の探究領域は、実証的な学問や世俗的な生活やそこでの様々な行為から超越した世界ではなかった。しかし、それが存在していることは事実で、実証科学や政治経済的活動や処世術だけですべて解決できるような場所でないことも否定できない。そこにカントの可能性=哲学の可能性が、その限界とともに今でも存在しているのだ。

(H19/1/3記)


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