☆ 心の哲学的考察(雑考) ☆

井出 薫

 心の哲学的考察を3つの観点から行なったので、ここに簡単に記しておく。いずれも、極めて粗雑な論考に過ぎない。

 薬で痛みや不安を和らげることができることを考えれば、心が脳に還元できないとしての、両者が密接な関係にあることは間違いなく、その関係を考察することには大きな意義がある。

 心はすべて志向性を有すると論じたが、不安な気分などは志向性を有しないと普通考えられている。

 こうした異論や難点はあるが、ここで論じたことは、基本的には正しいと考えている。心が脳の働きに決定的な影響を受けるのは事実だとしても、また、脳がなければ心もないとしても、心は脳に還元されない。心の動きを脳から説明することができても、なぜ私たちは「心」という次元を用いなくてはならないのか説明が付かない。心と脳の対応関係が明らかになっても、両者は永遠に平行線を辿る。両者の関係はミクロの物理とマクロの物理との関係とは全く異なることに注意して欲しい。物理学では(極めて不便だろうが)後者なしでも済ませることができる。しかし、心はけっして消去できない。それは紛れもなく、ここに在る。心は便宜的な存在ではないのだ。

 漠然とした不安、それは確かに明確な対象を志向したものではない。しかし、不安な気分そのものを私たちが問題としている以上、それ自身が志向的な対象であることは否定できない。私たちが論じる心とはある意味ですべて自己意識的なものなのだ。そう考えると、心はすべて志向的な存在となる。

 この程度の補足をしても、粗雑な考察が充実した考察に変わるわけではない。しかし、粗雑な考察は欠点が多いがゆえに、議論の題材として格好のものであるという場合もままある。それゆえ、ここに、粗雑な考察をそのまま掲載することにする。

■ 感覚の直接性と心の確実性 

 「私は歯が痛いが、本当は、歯は痛くないのかもしれない。」と言うことは意味がない。歯が痛いとき、私にとってそれが事実でないということはありえない。自分にとって、感覚は直接的で、それが事実であることを確かめる必要はない、証拠も要らない。一方、他人が「歯が痛い」と言っているのを疑うことはできるし、実際嘘を吐いている可能性がある。

 ところで、歯が痛い原因を私は直接知ることはできない。虫歯だけが歯痛の原因ではない。心臓が原因で歯が痛いことだってある。

 自分の感覚を間違うことはないが、人は自分の身体のことはよく分からない。身体に関しては自分と他人はさほど違いはない。医者でも、自分の病気の原因を調べるには、自分の身体をまるで他人の身体のように検査することが必要になる。

 これらの事実から、私たちは二つのことを学ぶことができる。私と他人とは違うということ(1人称と3人称の非対称性)、感覚が属する心の世界と身体が属する物質世界とが違うということ、この二つだ。

 デカルトが、「(我思う故に)我在り」という有名なテーゼを導き出した根拠も、疑うという論理的な操作そのものの確実性というよりも、疑っているという私の感覚の確実性だ。

 コンピュータサイエンスや脳科学の進歩で、心を脳と同一視し、脳から心を導き出すことができるという考えが広がっているが、「私」という存在の独自性と心は、脳に還元されることはない。−ただし、それは脳から独立した霊魂の存在を認めることではない。−

 心と身体の関係はどうなっているのかという問い(心身問題)はデカルト以来の西洋哲学の難題で、無数の哲学者が無数の解決策を提唱してきたが、いまだ決着の兆しすら見えていない。私たちは、心身問題は解決されないという事実を認めるところから哲学をするべきだろう。

■ 志向性

 心が物体と異なる決定的な特徴は何だろう。それは志向性だ。

 心の志向性とは、何らかの対象を含むということを意味する。たとえば「知る」ということは何かを知る(たとえば人の名前やコンピュータの動作原理を知る)ということで、対象の存在を含まない「知る」そのものなどというものはない。「意図」も同じで、意図とは、会社に行く、愛を告白するなど何らかの対象を意図することであり、何の対象も含まない「意図」そのものなどは存在しない。

 このようにおよそ心とは、外部の対象に志向しており、それだけで孤立して存在しているのではない。

 鏡は様々な対象が映し出されているが、鏡の像は偶然の反映物であり鏡の本質をなすものではない。真っ暗闇では鏡には何も映っていないが、鏡がなくなるのではない。しかし、志向するべき対象がない心は存在しない。−漠然として不快感などは志向する対象が明確ではないが、不快感そのものが受動的ではあるが、対象として志向されている。

 心の志向性を脳の現象に還元することは難しい。志向性は心が自然科学で解明できないことを示すものではないが、現存の自然科学的な手法だけでは心の本質を捉えることができないことを強く示唆している。

■ 観察によらない真実

 目を瞑って右手を挙げる。私は右手が本当に挙がっていることを、目を開いて右手を眺めることで確認する必要はない。私の感覚は私を裏切ることはない。こういうことを、ときどき、観察によらないで正しさが分かる真実だと言うことがある。ふつう、真実は何らかの方法でそれを確かめる必要があるが、感覚の確かさは疑う余地がない。

 しかし、私が脳の病を患ったり、薬物の影響で意識障害を起こしたりしているときには、感覚は当てにならなくなる。本当に右手が挙がっているかどうか目で確かめる必要がある。いや、目で確かめても確かではないかもしれない。−それでも何らかの感覚があることは疑いようがない。それがデカルトの「考える我」だ。−

 このことから、心は脳には還元することはできないが、それでも脳の状態により決定的な影響を受けることが明らかになる。脳が存在しなくても心が存在することを完全に否定することはできないが、それでも、脳が失われたとき、心は消滅するか、全く異質な次元のものとなることは間違いない。

 感覚の直接性は、心と身体・物質との違いを明確にするが、同時に、心が強く脳に依存していることも示している。

 このことを如何に理解すればよいのか、それが難題なのだ。

(H18/8/14記)


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