☆ 西洋思想と東洋思想 ☆

井出 薫

 西洋思想と東洋思想の違いを必要以上に強調するのは対話を阻害し、差別にも繋がる。しかし、両者の違いはやはり小さくない。

 荘子に「荘周、夢で胡蝶となる」という有名なたとえ話しがある。荘子は、荘子が夢で蝶になっているのか、蝶が夢で荘子になっているのか区別は付かない、区別が付かないのだから、蝶になっているときはひらひらと舞い、蝶として楽しめばよい、荘子でいるときには、荘子として楽しく生きればよいと説く。

 もちろん荘子が蝶になった夢を見たのであり、蝶が荘子になった夢を見たのではない。そのことは荘子自身も認める。だが、荘子はそれを証明することはできず、証明しようとあれこれ考えるのは無益だと諭す。これは論争を避けよと弟子たちに説いた仏陀にも共通することで、東洋思想には、緻密な分析や徹底的な討論を回避する傾向がある。

 これに対して、ソクラテスの方法が示すとおり、西洋哲学は緻密な分析と合理的な討論を尊ぶ。そして、その頂点に立つ者が、哲学者(ソフィア(叡智)を愛する(フィレインする)者=愛知者)と呼ばれる。西洋哲学の源流と称されるプラトンは、哲学者こそが国の王に相応しいと考えた。

 胡蝶の夢を例えに取れば、西洋哲学では、荘子が蝶になった夢をみたと言える確実な根拠をとことん探索する。

 意識の明瞭さ、周囲が自分を荘子だと言っていることなど、様々な状況証拠が取り上げられ、吟味される。

 だが、最後には、状況証拠を幾ら積み重ねても、絶対的な根拠などないことを認めなくてはならなくなる。ウィトゲンシュタイン的に言えば、「それは確実なのではなくて、疑うことに意味がない主張なの」だということに留まる。しかし疑うことに意味がないということは、絶対に正しいということとは意味合いが明らかに違う。

 要するに、西洋哲学は突き詰めると荘子と同じ結論に達する。だが、絶対的な根拠を追い求めた結果として、荘子が蝶の夢を見たのでありその逆ではないとする絶対的な根拠はないと認めるのと、初めから、荘子と蝶の区別などないのだと断定するのとでは、結論が同じであっても、その影響は全く異なるものとなる。西洋哲学の知への執拗さは、たとえ結論は詰まらないところに落ち着いたとしても、その探究の過程で非常に多くの興味深いことに出会う。注意深く議論を進めていけば、認識のあり方、対象の性格、言語や概念の意義など様々な発見がある。デカルトの「我思う故に我在り(コギト・エルゴ・スム)」を思い出してもらえば、このことは容易に理解されよう。

 ヘーゲルの弁証法・思弁的哲学は皮相的にみれば、無や空を説く東洋思想に近いようにみえるかもしれない。だが、それは誤解に過ぎない。ヘーゲル哲学の基礎には、人間の意識に対する緻密な分析がある。特段何も考えずに窓の外を眺めているとき、確かに意識はあるが、それは意識として把握されていない。しかし、人間は「自分が外を眺めている」という意識の働きそのものを(意識に対して)対象化することができる。そして、それが自己意識であり、意識の本質的な特徴となる。漠然と外を眺めている意識をヘーゲルは「即自」(アン・ジッヒ)と呼び、対象化された意識を「対自」(フュア・ジッヒ)と呼ぶ。そして、意識とは、両者の統一としての「即・且つ・対自」(アン・ウント・フュア・ジッヒ)としての自己意識になる。これは実に見事な意識現象の分析であり、このような緻密な分析を起点として、ヘーゲルの壮大な哲学体系は展開されている。このことから、ヘーゲル哲学は、詩的で曖昧な言葉を使って、暗示的に「色即是空、空即是色」の悟りをもたらそうとする仏教思想とは、その方法においても、その知のありようにおいても、全く異質なものであることが分かる。西洋哲学はあくまでも緻密な分析に基づく明瞭で確実な知を目指している。
(注)ヘーゲルは東洋思想を西洋哲学の前段、より低い水準に過ぎないと語っている。そこには独善的な西洋中心主義がある。だが、近代的な合理的学問の基礎という意味では、東洋思想が西洋哲学に端を発する西洋思想に一歩後れを取るのは事実と認めなくてはならないだろう。

 ルネッサンス期まで、ヨーロッパは、中東、中国などよりも、経済、政治、学問多くの分野で後れを取っていた。ところが近代以降西洋は世界を席巻した。近現代の合理的な科学技術、資本主義と対抗思想としての社会主義・共産主義、近代法と人権思想、民主制、現代社会にとって欠かすことができないこれらの制度はすべて西洋哲学という土壌に花開いた。

 20世紀後半から西洋中心主義に対する厳しい批判の火の手が各所から上がっているが、反西洋を唱える者ですら、人々を説得するには西洋的な手法を採用する必要がある。

 西洋が世界を席巻した原因は一つではない。だが徹底した分析と討議を求める西洋哲学の伝統が一役買っていることは否定できない。その合理的な学的真理への強い意志は、近代的な数学や物理学を生み出し、同時に近代的な法思想や政治思想を人々にもたらした。それは、産業革命に大きく貢献すると共に、民主化と人権思想の普及に大いに寄与した。

 関孝和の和算は同時期の西洋数学の水準を超えていたと言われることがある。だが、それは、芸術あるいは実用知の域に留まり、西洋数学のような壮大な合理的体系へと進化することはなく、その潜在能力を十分に発揮することができなかった。おそらく、それは、当時の日本社会に、社会的伝統として、学的真理への強い意志が欠けていたからだと思われる。

 西洋思想が東洋思想よりも優れているとは言えない。ただ現代社会はおそらく西洋哲学の伝統の下でしか生まれ得なかった。日本、韓国、中国は、東洋的伝統を一定の領域に押し込めて、西洋を全面的に取り入れることによって近代化した。

 もちろん、それが人類にとって、あるいは地球環境にとって幸いであるかどうかは分からない。環境破壊、資源の浪費、人々の原始的な紐帯の喪失などを考えるとき、けっして幸福な世界ではないという思いも湧いてくる。そして、将来、人類が荘子的世界へと転回する日が来ないとも限らない。

 とは言え、西洋哲学が重んじる合理的で徹底的な分析と真理探究のための討論を、私たちは現時点ではけっして放棄するわけにはいかない。産業が発展して、人口が爆発的に増加している現代において他に取って代わる方法はないからだ。

(H18/8/8記)


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