☆ 心の哲学 ☆

井出 薫

 オースティンの言語行為論を発展させた哲学者サールが新著で、21世紀の哲学の最も重要な課題は「心の哲学」だと語っている。

 最重要課題かどうかは意見の分かられるところだが、「心の哲学」が現代において極めて重要な課題であることは事実だ。

 とは言っても、脳科学やコンピュータサイエンスに進歩により、心は、哲学ではなく科学の研究対象になりつつあると考える人も少なくないだろう。−なお、本論では「科学」はもっぱら自然科学を意味するものとする。また心理学は科学に含めない。−

 7月13日付けのネイチャー誌では、四肢麻痺患者の意思を脳に取り付けた装置を通じて電気信号に変換して、コンピュータやテレビを操作できることが報告されている。将来は四肢麻痺患者がロボットを使って普通の人と同じように生活することができるようになるかもしれない。こういう現代科学の目覚しい成果を目の当たりにしたとき、心も科学で(原理的には)解明できるはずだと人々が信じても無理はない。しかし心は科学では解明できない。

 痛みを感じるとき、脳で何が起きているかを、科学は解明することができる。だが、脳が特定の状態にあるとき、あるいは、特定の物理的な過程が生じているとき、それをなぜ人は「痛み」と感じるのか、科学はけっして答えることはできない。

 脳組織のほんの一部を人工的なデバイスに置き換え、しかも本人も周囲もその影響を全く感じないようにすることは可能だろう。だが、こうやって少しずつ脳を人工的なデバイスに置換していき、最後にすべてを人工物に置き換えたとき、それでも人は心を持っているだろうか。周囲の人には心を持っているように見せかけることはできる。しかし、本人に心は残っているだろうか。このような問いには、科学は答えを用意できない。

 科学は強力だが、すべての問いに答えることができるわけではない。基本的に、科学は、一定の観点から自然現象を分類・整理して、それらの間の関係を(一般的に数学を使って)明確にして、統一的な法則や原理を発見することを目的とする。そして、それらの法則や原理を使って、様々な現象を説明したり、予測したり、自然現象を制御したりする方法を見つけ出し、現実に応用する。

 科学の法則や原理において、エネルギー保存則のような保存則と、時間とともに自然現象がどのように変化するかを記述する方程式や説明図式が、決定的に重要な位置を占める。自然界に潜む保存則を見つけること−染色体の数のように常に厳密な保存則が成り立つわけではないが、通常一定に保たれる量もこの範疇に含まれる−、自然現象の時間変化を記述する方法を見つけること、この二つの試みにより解明できることだけが、科学の問いとなりえると言ってよい。しかし、心に関する諸問題は、このような方法では解明できない。

 足を失った人は、足という身体器官が欠けていることが原因で苦しむのではなく、自分には足がないという思いに苦しむ。そのとき、科学は脳で何が起きているかを示すことはできる。だが、それは苦しみの原因を説明することにはならない。人は、脳が苦しむのではなく、心が苦しむからだ。脳は感情や思考に不可欠な物理的な基盤かもしれないが、感情や思考ではない。それはコンピュータの電子装置が計算に不可欠な物理的な基盤だからと言って、電子装置やそこで生じる物理的な過程が計算ではないのと同じだ。

 だから、心と脳という二つの場を時間変化で結び付けることはできない。「痛み」を感じているとき、確かに脳では何かが起きているだろう。だが、その脳の何かが原因で痛みが生じるのではなく、その逆でもない。つまり、心のあり方と脳の状態を、因果関係で結合することはできないのだ。

 さらに、心の領域には、保存則に相当するようなものは存在しない。フロイトのようにアナロジーを駆使して、保存則めいたものを提示することはできるが、それは誰にも検証することができない神話に過ぎない。だから、それは科学理論にはなりえない。

 科学は、心に関わる出来事の自然的な基盤を明らかにして、適切な手術や薬物処方、行動療法などにより、人の気持ちや思考方法を変えることができる。意思と関連している脳内過程を物理的に変換して、コンピュータやテレビを操作することもできる。だが、なぜ、それが物理的に外部から観察可能な振る舞いの変化だけではなく、人の気持ちや考えを変えることになるのか、科学は説明できない。そもそも、人の気持ちや考えが、なぜ脳や身体という物と関わることができるのか、所謂心身問題も科学研究の範疇外にあると言わなくてはならない。

 科学では解明することができないこれらの問いを探究することが、心の哲学の任務になる。20世紀後半から、脳科学は目覚しい進歩を遂げてきた。そして脳科学の成果を背景に、心の諸問題に科学という視点から光を当てようという気運がいやがおうにも高まってきた。だからこそ、ある意味、バランスを取るためにも、心の哲学が極めて重要となる。科学の限界を示すこと、科学の限界を超えた問いを解決すること、これが心の哲学の課題となる。そして、コンピュータや通信技術が生活に浸透して人々の行動様式や思考方法が根源から変容しつつある現在、それは切実な課題だと言わなくてはならない。

 ただし、私たちは心の哲学に過大な期待を抱いてはいけない。科学に答えることができない問いに、心の哲学が解答を与えることができたとしても、その解答は、科学が与える解答のように明快でもなければ、積極的なものでもない。多くの問題に対して、哲学が与える解答は、「私たちの思考方法と記述方法から言って、これらの問いには答えはない。答えはない、というのが答えである。」というような消極的・否定的なものとなるだろう。結局のところ、私たちは、ウィトゲンシュタインの著「論考」が語るように、「語りえぬことには、沈黙せねばならない」という結論で満足しなくてはならないだろう。だが、たとえ、そうであっても、そのことを知るということが重要であることに変わりはない。

(H18/7/17記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.