☆ 奇跡 ☆

井出 薫

 「起こりえない」ことが起こったときに、人はそれを奇跡と呼ぶ。だが起こったのであれば、それは「起こりえない」ことではなかったことになる。だとすると、起こりえないことが起こるということを奇跡だと言うならば、それは矛盾だ。奇跡はありえない。

 奇跡は論理を超えたところにあり、それはキリストの復活のような人智を超えた出来事にだけ適用される。そう考えることはできる。しかし日本人の「奇跡」という言葉の使い方は違う。サッカー日本代表がブラジル代表に10−0で勝利を収めたら、奇跡が起きたと日本人は大騒ぎをするだろう。しかし、この程度のことは、奇跡でもなんでもなく、こんなところで「奇跡」という言葉を使うのは、神にのみ適用される「奇跡」という概念を世俗的な出来事に適用する不遜極まりない振る舞いだということになる。

 人々は、そんな厳格な意味合いで「奇跡」という言葉を使っているのではない。「起こりえないことが起きる」のではなく、「起きそうもないことが起きた」ときに、現代人はそれを奇跡と呼び、喜び、感謝しているだけなのだ。

 だが、これは非常におかしなことではないか。起きそうもないかどうか、つまり確率が低いか高いかは人間的な基準で如何様にでも変わる。サッカー日本代表が2点差でブラジル代表に勝つ確率が1%だとして、それを限りなくゼロに近いとみるか、十分に可能性があるとみるかは、時と場合と人による。だから、有限の確率を持つ事象の発生を「奇跡」という言葉で表現するのは、論理的にも(信仰の篤い人にとっては)倫理的にも、適切なことではない。

 「だが、そんな理屈を捏ねていたのでは、言葉を自由に使うことはできなくなる。」こう指摘されるだろう。そのとおりだ。だが、人がこういう言葉の使用方法に潜む矛盾を看過して暮らしていることを忘れない方がよい。権力者や報道の甘言に惑わされないためにも。

(H18/7/2記)


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