☆ 物理学的な世界〜モデル・道具論の導入として〜 ☆

井出 薫

 「自然という書物は数学という言葉で書かれている。」ガリレオはこう述べた。だが別に自然が数学的記号からなるわけではない。

 私たちは数学という言葉を発見して、自然や社会に様々な遣り方で当て嵌めて、様々な世界像を生み出してきた。古代のピュタゴラス学派は神秘的な数的美学の世界像を作り出した。一方、西洋近代は、生活と産業からの要請で、数学を近代科学に繋がる合理的な形で自然現象の分析や社会の諸活動へ応用した。そして、それは機械的な合理性を有する物理学的世界を展開することとなる。

 物理学では様々な数学が使用され、最初は全く現実と関係ないと思われていた数学が非常に役立ったりすることがある。これはなぜだろうか、と問われることがある。非ユークリッド幾何学、群論、ヒルベルト空間論など発見された当時は純粋数学の産物だと思われていたものが、今では物理学にとって、なくてはならない道具になっている。どうして数学は物理学で巧みに活用できるのだろうか。

 しかし、この答えは簡単だ。そもそも物理学とは、自然を近代的な数学で表現した無機的な世界に物体間の機械的な相互作用を組み込むことで成立した世界像であり、当然のことながら、そこでは数学が縦横無尽の活躍をすることになるし、数学なしにはそもそも物理学の理論体系は構築できない。現実とは関わりがないと思われている数学も、実際はこの抽象的な物理学的世界像の中で発見されるものに変わりはなく、物理学と何らかの関連を持つことになるのは当然の成り行きなのだ。

 物理学が描き出す世界こそが真の世界であり、すべてはそこから導き出されるという考え方がある。20世紀前半の哲学に大きな影響を与えた論理実証主義の中には、全ての学問は物理学により基礎付けられるべきだという考えすらあった。−それは、しばしば「物理主義」と呼ばれた−

 だが、このような考えは特殊なものではなく、現代人が漠然と信じている考え方だと言っても良い。

『自然界はすべて素粒子−光子やグルーオンなど相互作用を媒介する粒子を含む−の集合体からできている。物理学は素粒子がどのような法則に従い運動しているか、どのような原理に従いその法則を統一的に理解することができるかを解明して、自然界の究極の姿を描き出し、将来を予測し制御することを可能にする。しかし膨大な数の素粒子からなる現実世界では、素粒子を記述する究極的な物理学の原理から、具体的な厳密解を導き出すことは現実的には不可能になる。だから状況に応じて、様々な近似的な方法を駆使して具体的な解を見つけ出す必要がある。その結果、その対象の大きさや性質に従って、化学、生物学、生態学、地球科学、天文学など様々な分野の自然科学がその存在意義を獲得する。しかし、物理学の基礎原理から厳密解を導出することが不可能だから、これらの諸分野が必要不可欠となるが、原理的にはすべての学問分野は物理学に還元される。なぜなら、すべては素粒子の相互作用の現われだからだ。人が神のごとき知力を持っているとしたら物理学以外の学問は存在しなかっただろう。』このような考えを持つ人は少なくないはずだ。

 だが、このような物理主義は正しくない。物理学とは、自然に対して、数学と機械的相互作用のアナロジーを特定の遣り方で当て嵌めることで生成された世界像に過ぎず、自然そのものを記述するものではない。様々な学問分野は、それぞれ固有の手法で世界を眺め、固有の世界像を展開する。つまり、それは物理学的世界像とは根本的に異なるものとなる。それはけっして物理学に還元されることはない。

 それは生物学を思い起こせば、容易に納得できる。生物学では生物と無生物とは決定的に違う存在だが、物理学では生物・無生物という区別は意味を持たない。生物学の世界像は物理学のそれとは決定的に異なる。そしてそれは他の分野でも変わることはない。

 どのような学問分野だろうと、自然あるいは社会を直接的に描き出すものではない。それは、現実世界との関わりの中で、人が道具として使用し、同時に産出するモデル・道具に過ぎない。物理学、化学、生物学、生態学、様々な学問分野は、それぞれ固有の遣り方で、自然に対するモデル・道具を作り出し、それを利用して様々な課題に応えていく。

 とは言え各学問分野は完全に独立したものではない。特に、ミクロ世界を記述する最も抽象的で普遍的な性格を有する物理学のモデル・道具は他の自然科学分野のモデル・道具を強く拘束する。生物も無生物も素粒子の集合体という性質を持つことは事実だからだ。それゆえ、その意味で物理学は最も基礎的な学であると言うことはできる。しかし、それでもすべてが物理学に還元されることはない。

 このことは、すべての学問的な認識は、学問的なモデル・道具の使用による、新たな学問的なモデル・道具の生成であり、研究対象あるいは操作対象の直接的な把握ではないこと、学問的なモデル・道具と対象そのものとの間には消去することができない差異が存在することを論証すれば、自明のこととなる。しかし、ここで「モデル・道具」について詳細に論述することはできない。それは別の機会に譲ることとする。

(H18/6/3記)


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