☆ 確実なるもの ☆

井出 薫

 「矛盾をなぜそれほど恐れるのか」と問うウィトゲンシュタインに対して、コンピュータサイエンスの父と称される天才チューリングは「矛盾を孕む数学を使って設計した橋は崩れ落ちてしまう」と反論した。

 確かに矛盾した数学体系を使ったのでは橋の設計は正しく出来ない。だから、一見したところチューリングの反論が正しく、数学体系に矛盾があっても構わない、などと主張するウィトゲンシュタインは理不尽なことを言っているようにみえる。だが、本当にそうだろうか。

 人間の思考や行動はいつも矛盾に満ちている。いつでも首尾一貫した行動や思考をとる人間など存在しないし、もし存在したら私たちはその人物を異常だと警戒するに違いない。

 しかし、なぜか人は数学に絶対的な確実性を求める。それはある意味で完全なる神への崇拝に似ているかもしれない。原作が大ヒットして映画にもなった「博士の愛した数式」に登場する80分間しか記憶が持たない数学博士は、「数学の問題を解くことは(全知全能なる)神様のノートを覗くことだ」と語っている。数学者は勿論のこと、多くの人たちが同じような考えを抱いている。だから、大多数の人は、チューリングと同様に、矛盾を孕む数学体系は正しくなく、使い物にならないと考えるだろう。

 だが、矛盾を孕む数学体系を使って設計した橋が崩れ落ちたとして、それは数学の責任だろうか、矛盾が含まれていることがその原因だろうか。違う、人がその数学をうまく使いこなせなかったことが、橋が崩れ落ちた原因だ。矛盾を孕む数学を上手に使って頑丈な橋を作り出すことは可能だ。

 数学は矛盾を含まず確実なものである必要性は必ずしもない。ただ人間という存在者の構造上、矛盾を孕まない数学の方が使いやすいというだけに過ぎない。それは、場所により赤と青の意味が異なる交通信号機よりも、どこでも赤と青の意味が共通している交通信号機の方が使いやすいのと同じことに過ぎない。別に赤と青の意味が場所ごとに異なる交通信号機だって構わない。もちろん事故は増えることは確実だが、それは信号機そのものに問題があるのではなく、人間に問題がある。

 人は数学に確実なものを求めたがる。不確定性原理を発見(発明?)したゲーデルは、数学を使って、神の存在を証明しようとした。だが成功するはずがない。神も、私たちの身のまわりの現実も、数学のようにはなっていないし、数学から導き出すことができるものでもない。私たちが今使っている矛盾を孕まない(と信じられている)数学は世界のほんの一断面に過ぎず、断面の切り出し方には無数の方法がある。矛盾を孕む数学もその一部として存在しうるし、状況によっては使い道もある。ウィトゲンシュタインは結局正しかったのだ。

(H18/6/3記)


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