☆ マルクスの考察の現代的な意義 〜価値と使用価値、資本主義の限界など〜 ☆

井出 薫

 マルクスは、商品の価値には、価値と使用価値という二重性があると指摘した。前者は交換価値という現象形態を取り、後者は具体的な有用性を意味している。大雑把に言えば、前者は具体的には価格という姿を纏い、後者は商品の効用を表現すると言ってよいだろう。

 現代の経済学では、商品の価格は限界効用で決まるとされている。つまり、現代経済学では、価値と使用価値は、単純な比例関係にあるのではないが、明確な数学的な関係で結び付けられていると想定されている。だから、価値と使用価値をことさら区別して考える必要はない。

 しかし、マルクスの観点からすると、両者の間には明確な差異があり、そこにこそ資本主義的生産様式の特徴が現れているということになる。ところが、マルクス自身が両者の関係を十分に吟味しておらず、「資本論」でも、価値が量的な側面で使用価値が質的な側面だなどという些かスコラ的な議論をしている箇所があるかと思えば、両者の間には正の相関があると論じているような箇所もある。価値の二重性は価値形態論・貨幣論で援用されているだけで、その意義は十分に展開されていない。つまり、マルクスは自分の発見の意義を必ずしも的確に把握しておらず、その結果それを十分に展開しないままに終わっている。

 現実の資本主義社会では、現代経済学が前提しているように、価値と使用価値が明確な数学的な関係で結ばれているとみなせるような状況にはない。価値と使用価値の関係は極めて複雑であり、明確な数学的表現で記述できるようなものではない。

 マルクスも、現代経済学も、物やサービスは使用価値であることにより価値であると前提している。もちろん、これは具体的な事実を示すものではなく、論理的な定義のようなものでしかないと考えるべきだろう。しかしこの論理的な定義は資本主義社会の現実を捉えるために適切なものとは言えない。資本主義的な市場経済においては、価格という形態を取る貨幣換算された価値の増殖が常に経済活動の目標かつ指針となる。価値増殖が実現されれば、ある意味で使用価値はどうでもよいものになる。株式取引で利益を得ても、米を育て収穫して売って利益を得ても、どちらでも構わない。両者は資本主義的市場経済においては本質的な違いを持たない。

 価値がすべてを支配する資本主義社会では、価値が使用価値を規定する。本来使用価値ではない(=現実社会で現実的な効用を持たない)にも拘わらず、それが価値として、価値増殖の源泉となるということで、使用価値となることがある。株式など有価証券はその典型的な例であり、ブランド品がその実用性に関わりなく過大な価値を持つこともその現われだとみてよい。

 マルクスの時代と異なり、現代の資本主義経済が、政府や中央銀行を中核とする金融組織により適宜制御されて経済活動を行っているにも拘わらず、バブルで投機が横行し株価が乱高下したり、長期に亘って景気低迷に悩まされたりするのは、本来使用価値に規定されるべき価値が、しばしば逆に使用価値を規定しているからだとみることができる。たとえ企業や政府が、国民福祉の増進や世界平和と調和の取れた発展のために、生産活動を計画立案したとしても(現実にはそんな立派な政府も企業も存在しないと思うが)、価値の動きが使用価値を恣意的に決めてしまうという資本主義経済に内在する根本的な不確定要素が、その試みを台無しにして、善意が投機に利用されることになる。

 ところで、貨幣には二つの性質がある。計算合理性という性質と、価値への限りない欲望の表現という性質の二つだ。(後者を「黄金への欲望」と表現することにする。)

 計算合理性を代表する貨幣は、様々な商品の価値と使用価値の比率を合理的なものとすることに寄与する。貨幣が専ら計算合理性を代表するものであれば、政府や企業、市民が善意を持ち、適切な経済政策と経営計画を立案実行すれば、市場経済は世界の人々にあまねく公平に十分な富を与えることができるだろう。しかし、それは現実ではない。

 貨幣には、価値への限りない欲望を表現するものとしての黄金への欲望という性質がある。それが使用価値と価値、様々な商品の価値の比率を不合理なものとして、しばしば世界を賭博場と化してしまう。

 だが、黄金への欲望を解消することはできない。価値増殖を経済活動の原動力とする資本主義的市場経済において、貨幣の計算合理性を機能させる原動力は、他でもない黄金への欲望だからだ。それを無くしたら、資本主義経済は崩壊して私たちは洞穴生活に戻らなくてはならなくなる。だから、資本主義体制では、如何に工夫を凝らしても、市民や政府や企業が善意を持っていても、公平に富が世界の人々に行き渡り、自然と調和した環境で健全かつ合理的な社会発展を望むことはできない。富は偏在して自然環境は破壊される。これは資本主義の宿命だ。−勿論人々の努力でそれを緩和することはできる。−

 マルクスが指摘した使用価値と価値の間に横たわる解消できない差異という観点は、こうして資本主義特有の事情とその致命的な欠陥と限界を明らかにする。

 マルクスやマルクスの後継者達は、このような資本主義の欠陥と限界を、私的所有制・市場・貨幣に集約されていると考えた。そこで、私的所有の廃棄、市場経済から計画経済への移行、貨幣の廃止という政策を採用することで、資本主義を超えた階級のない社会、公平で、すべての人々が豊かで自由で幸福な社会が実現できると夢想した。

 だが、これは正しくない。貨幣は計算合理性を代表するものであり、科学技術の進歩と社会の拡大を背景として産業が著しく発展した時代において、社会に溢れる無数とも言える多種多様な生産財や消費財を人々の間で適切に分配するために不可欠な道具であり、廃止することはできない。市場もまたこのような時代においては、経済活動を組織する最良の方策であることを否定できない。計画経済でもシミュレーションの中で市場を模倣しないと、恣意的で強圧的な統制経済になることが不可避で、しかも現実的にはシミュレーションで現実の市場を代替することはできない。つまり、資本主義社会を超えたより良い社会、階級のない社会を実現するにしても、市場と貨幣は放棄できない。また私有制も各人の自由な発展を保証するためには一定の範囲で認められている必要がある。

 逆に言えば、貨幣の計算合理性があまねく支配するような状況が生じれば、あとは適切な政策を立案・実行することで、不当な搾取や貧困、自然破壊をなくし、公平で、自由で、平和で豊かな良い社会を実現できる。要は、黄金への欲望なしに貨幣の計算合理性が機能するような社会が実現できればよいのだ。

 しかし、バタイユが論じたとおり、人という存在には蕩尽するべき過剰が付き纏う。どのような社会体制や思想を取ろうと、黄金への欲望を完全に制圧することはできない。そのような試みは結局のところ独裁社会を呼び寄せることになり、そこでは最悪の形で黄金への欲望が肥大した権力機構と相俟って人々を強圧的に支配・弾圧・搾取することになる。

 だから、黄金への欲望を廃棄することではなく、価値に対して使用価値、黄金への欲望に対して計算合理性の優位性を確保すること、これが我々の目標とならなくてはならない。価値や黄金への欲望は人の本質的な部分に属するから、それは隠蔽することはできても、その存在を否定することはできない。隠蔽すれば、それは最悪の形で人々を災厄の中に巻き込むことになる。

 では具体的にそれをどのように実現すればよいのか、それは非常に難しい課題になる。過激な革命では実現できない。極端な貧困や暴力を政府が放置しているような場所、武力による弾圧が横行している社会では、ときには暴力による革命も必要となろうが、それは一時的な解決策でしかなく、根本的な問題解決にはならない。

 価値は使用価値をしばしば規定する。だが、もし、この世にあるものすべてが単なる価値でしかないとしたら、私たちは一日として暮らしていくことはできない。貨幣だけしか存在しない世界では、人は飢え死にするしかない。その意味では、価値の優位には実は限界がある。繁栄している国の好況期、バブル期には、そこに暮らす人々は価値の限界などないかのように振舞うことができる。しかし少し景気が悪くなったり、天災に見舞われたりすれば、人はすぐに、人々の生活において第一に要請されているのは、価値ではなく使用価値であることを思い出す。

 資本主義社会では、黄金への欲望は貨幣を流通させることで、貨幣の計算合理性を機能させる。だが貨幣の計算合理性が機能しているからこそ、黄金への欲望は継続することが可能となる。その意味で、やはり、資本主義社会においてすら、黄金への欲望は人々が生きていくために第一に必要とされるものではない。

 もとより、単に思想的にこれらの事実を確認するだけでは問題は解決されない。思想は人々の行動を支配するのではなく、寧ろ人々の行動に支配される。だから思想の力は限られている。だが、私たちは日々の生活の中で、経済活動や政治活動に関与する過程で、この思想を現実へと適用していくことで、社会改革を進める手掛かりを得ていくことができるだろう。日々の生活の中で自分を支配しているものが何であるか、それは正しいものであるのかを反省することで、改革への道が、徐々にではあるが拓けてくるだろう。若き日のマルクスの急進的で過激な革命思想はもはや現代社会では適当な行動の指針とはならない。だが「資本論」で語られている思想、そこから読み取ることができる思想の中には今でも十分に価値を持つものがある。その一つの例がここにある。私たちがなすべきことは、それをドグマとしてではなく、反省のための思想的な材料として、日々の実践に生かしていくことだ。そして、そのとき、新しい明るい未来が見えてくるだろう。

(H18/5/20記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.