☆ 慣性系の意義 ☆

井出 薫

 ニュートンの第一法則は「力が働かないとき物体は等速直線運動をする」と主張している。これは一見したところ第2法則「加速度と質量の積は力に等しい」の特殊な事例に過ぎないように思える。力が0のとき、加速度は0となり、自動的に物体は等速直線運動をすることになるからだ。

 だが、第1法則は第2法則の単なる特殊解ではない。第2法則が成立するのは慣性系だけで、地球に向って自由落下している系など非慣性系では第2法則は成立しない。力が存在していないのに存在しているように見えたり、逆に、力が働いているのに力が存在しないように見えたりする。遠心力がその実例だ。

 現実の宇宙には力が全く働かない場所など存在しない。だから、現実には存在しない慣性系でのみニュートンの第2法則は成立することになる。

 第1法則は、ニュートンがその力学体系を構築するに当たって、理論体系の枠組みとして慣性系を採用するということを示している。

 この原理は、経験から導かれるものではなく、経験から物理学の法則を導き出すための枠組みとして存在している。−もちろん経験なくして、ニュートンの第1法則の発見=発明はありえない。しかし、それはけっして帰納法のような論理学的な手法で導出されるものではない。−

 エネルギー保存則やエントロピーの増大則が理論構築の枠組みであるのと同じように、ニュートンの第1法則もニュートン力学の全体系を構成するための理論構築の枠組みになっている。そして、それはニュートンの古典力学の限界を超えた古典電磁気学、相対論、量子論、熱統計力学においても、依然として、有効な枠組みとして機能している。局所的に慣性系を想定することができるという仮定が、これらの新しい物理理論構築に欠かすことができない原理として働いている。

 物理学は、このように理論構築の枠組みを普遍的な原理として定立して、その上で具体的な物理学的な問題を解決する理論体系を構築していく。その中でも、ニュートンの第1法則は、すべての原理の中で最も強力なものだと言って良いだろう。エネルギー保存則もエントロピーの増大則も、慣性系という枠組みで初めて矛盾なく導入できる。

 ポストモダニズムが流行した一時期、ニューサイエンスなどという名称で、ニュートン的世界観の終焉が盛んに叫ばれたが、それは明らかに間違っていた。複雑系、カオス、フラクタル、カタストロフィーなど、ニューサイエンスが盛んに引用した理論もまた慣性系の基盤の上に存在している。つまりニュートン的世界観は依然として健在なのだ。おそらく、ニュートンの第1法則はお釈迦様の掌のようなものなのだろう。人はそこから飛び出すことはけっしてできない。

(H18/5/6記)


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