☆ 熱力学の第2法則 ☆

井出 薫

 熱力学の第1法則は先日論じた「エネルギー保存則」であるが、第2法則は閉じた系ではエントロピーが必ず増大するという「エントロピー増大の法則」を示している。

 エネルギー保存則は、古典力学、電磁気学、相対論、量子論などすべての物理学の基礎理論で成立する普遍的な法則であり、その普遍性は物理学理論構築の枠組みとして前提されることで保証されると論じた。では第2法則はどうだろうか。

 全ての基礎理論は時間反転に対して対称的になっている。つまり過去から未来へという時間の進みを逆転しても、物理法則は変わらない。だから、時間には一定の方向があり、過去から未来へという方向と、未来から過去へという方向は異質で、後者はけっして現実化することはないと主張している第2法則は物理学の基礎理論と整合しない。このことが19世紀から偉大な物理学者たちを悩ましてきた難問だった。

 すべての理論の中でも最も基礎的な量子論の世界では、厳密に言えば時間反転対称性は僅かであるが破れる場合がある。厳密な対称性は、CPT反転に対する対称性、つまり、粒子→半粒子、時間反転、空間反転、この三つの反転を同時に行なったときにだけ成立する。時間反転だけでは対称性が破れることがあるのだ。しかし、この対称性の破れはごく小さく、マクロの物理現象に影響を与えることはない。

 ところが、机から転げ落ちて壊れたグラスの破片が、自然に集まってもとのグラスに戻り机に乗るなどということは現実には起こりえない。死んだ人間が生き返りどんどん若くなり幼児に戻るなどということもありえない。現実世界では時間には決まった方向がある。そして、その方向を決めるのが熱力学の第2法則なのだ。だから第2法則は確実な法則であり単なる近似的な法則ではないと言わなくてはならない。

 ここに解決困難な難題がある。基礎理論の妥当性は広く認められている。その一方で熱力学の第2法則、時間の一方向性も広く認められている。ところが両者は調和しない。

 この問題をどのように考えればよいのだろうか。基礎理論は抽象的な原理だが、エントロピー増大則はマクロの世界の現象論なのだとする立場がある。この立場では、基礎理論は外部からの影響を捨象した理想系で成立する法則であるが、エントロピーの増大則は私たちの現実の経験を基に構成された経験法則であり、両者には矛盾はないと考える。
(注)現実には外部からの影響が存在しない孤立した物理系は存在しない。−宇宙全体は別だが−だから、熱力学の第2法則は、エントロピー増大則と言うよりも、自由エネルギーの低減則と言うべきであろう。だが、そのことはここでの議論には関係ないので、一般的によく知られている「エントロピー増大」という名称を使う。

 しかし、現実の世界は一つであり、抽象的な基礎理論も現実世界を説明するための理論なのだから、このように抽象的な理論と現象論との違いを指摘しただけでは問題は解決しない。両者は合致しなくてはいけないはずなのだ。つまり基礎理論から現象論が導けなくてはならない。基礎理論からの演繹結果と現象論に食い違いが生じるのであれば、どちらかが間違っていることになる。

 だがエントロピーの増大則も経験に基づく現象論ではなくエネルギー保存則と同じように、理論構築の枠組みだと考えれば問題は解消する。自然そのものに矛盾は存在しない。矛盾はただ自然を理論化したときだけに発生する。

 ミクロの素粒子から構成される理想系の基礎理論を構築するときには前回論じたエネルギー保存則を理論構築の枠組みとして使用する。一方、マクロの熱統計力学を構築するときには、エントロピーの増大則を理論構築の枠組みとして使用する。こう考えれば、基礎原理と熱力学第2法則の矛盾は解消される。時間反転対称性は基礎理論の帰結であり前提ではない。一方、時間反転非対称性は熱統計力学の帰結ではなく前提だ。こう考えれば、両者の間には矛盾は存在しないことが分かる。

 それでも、納得がいかないと言う人もいるだろう。それは物理法則が自然そのものを直接表現するものだと考えているからだ。物理法則=自然そのものという図式が頭の中にあると、そこに矛盾を感じる。だが、如何に基礎的で普遍的であろうと、物理学は自然そのものを直接的に映し出すものではなく、人間が自然の諸現象を説明、予測、制御するための理論的なモデルに過ぎない。それは自然そのものではない。このことを理解すれば、問題は自然と解消する。

(H18/4/29記)


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