☆ エネルギー保存則の意味 ☆

井出 薫

 物理学で最も基礎的な原理は何かと問われたら「エネルギー保存則だ」と答えるという専門家は少なくない。確かにエネルギー保存則は古典力学、電磁気学、熱統計力学、相対論、量子論などすべての基礎的な物理学理論で成り立つ普遍的な原理だ。しかし、エネルギー保存則は実験や観測から導かれた実証的な法則なのだろうか、それとも哲学的あるいは数学的な考察で導かれた思弁的な法則なのだろうか。

 普通は実証的な法則だと信じられている。だが唯物論者だったエンゲルスは、19世紀の科学進歩の意義を論じているところで「エネルギーが保存されるという発見が重要なことではない。それはすでに哲学で証明ずみだ。その本当の意義は異なるエネルギー形態が相互に変換されることが明らかにされたことにある。」と論じている。エンゲルスはエネルギー保存則が専ら哲学的世界の法則だと言っているわけではないが、それは近代の実証科学的な研究を待つことなく哲学的考察で明らかにされるものだと考えていたのは事実だ。

 古代ギリシャでは「無から有は生まれない」と信じられていた。この考えは何らかの保存則の存在を意味するものであり、保存されるものがエネルギーに相当すると考えてよい。エンゲルスもこの西洋哲学の伝統に則ってエネルギー保存則の意義を考えていたのだろう。

 数学的に表現すると、エネルギー保存則は物理法則が時間的に不変であることと等価になる。−因みに、物理法則が空間的に不変であることと運動量保存則が、方向により変化しないことと角運動量保存則が等価になる。−正しい物理法則は自然の究極的な真理を表現するものだから、それが時間的にも空間的にも不変的だと考えることは合理的であり、その反対は不合理と言える。究極的な真理は地球が誕生したときも今も変わらないし、地球でもアンドロメダ星雲の小さな惑星でも同じであるはずだ。さもないとそれは究極的な真理とは言えない。

 だとすると、エネルギー保存則は実験や観測データから実証的に導かれた法則ではなく、哲学的並びに数学的な要請から自動的に導出される法則だということになる。

 だが実証的な精神に富んだ現代人ならば、このような考えはスコラ哲学的な屁理屈に過ぎず、エネルギー保存則は実験や観測で証明されて初めて正しいと認められるものであり、実際様々な実験や観測がその正しさを証明したからこそ正しい法則と信じられているのだと考えたくなるだろう。

 実際、1970年代には、宇宙全体では僅かながらエネルギー保存則が破れているという定常宇宙論が少なからぬ注目を集めていた。しかし、その後の観測結果から定常宇宙論はほぼ完全に否定され、今では137億年前にビックバンで宇宙は誕生したという「インフレーション理論+ビッグバン宇宙論」が支持されている。このことはエネルギー保存則が実験や観測により証明されるべき実証的な法則であることを示していると言えるだろう。

 だが、エネルギー保存則は物理法則が時間的に不変であることと等価だから、逆に物理法則が時間と共に変化することがあれば、エネルギー保存則は成立しなくなる。そのようなことはこれまでなかったし、将来もないと誰が保証できるだろうか。寧ろ宇宙や地球の歴史をみれば同じ現象は二度と生じず、物理法則も時間とともに変化すると考える方が自然にも思える。

 実際、物理学者が手にしている実験や観測データの量は全宇宙と比較すればゼロに等しい。だから実験や観測だけでは物理法則の時間的不変性が証明できるはずがない。エネルギー保存則は実証的に証明された確実な法則だという保証はどこにもないのだ。それどころか証拠となるデータの量だけを数えると、確証度は0%だと言っても過言ではない。だが私たちはエネルギー保存則に絶大なる信頼を置いている。もしこの法則が成り立たないとなると、あらゆる自然科学の体系は崩れ落ちてしまう。では一体、エネルギー保存則とは如何なる身分を持つものなのだろうか。

 「エネルギー保存則=物理法則は時間的に不変」という思想は、物理理論を構築するための数学的な枠組みと考えればよい。だから、その枠組みに基づき構築された理論からエネルギー保存則が導出されるのは当然のこととなる。エネルギー保存則は最初から前提されていたからだ。−エンゲルスが述べたことはあながち間違いではなかった−

 ただ、この枠組み自身が常に正しいとは限らない。観測データから定常宇宙論は否定されたが、将来再びエネルギー保存則が破れているような理論が登場する、あるいはそれを示唆する実験データが見つかる可能性はある。そのときには、私たちは物理法則の時間的な不変性という理論構築の枠組みを見直さなくてはならなくなる。その意味で、エネルギー保存則は哲学的・数学的な要請だけで論証されるものではなく、実証的な研究を通じてその妥当性が証明される必要がある。−ただし、その証明はこれまでの考察から分かるとおり直接的なものではなく間接的なものとなる。−

 このようにエネルギー保存則は実証的な研究と哲学的・数学的考察を結び付けて、実りある物理学体系を形作るための基礎として存在している。だから、やはりそれは物理学にとって最も重要な原理なのだ。

(H18/3/30記)


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