☆ 「私」とは何か ☆

井出 薫

 「私」とは何か、こんな簡単な問題はない。私とはこの私のことだ。だが哲学の世界では「私」は最大の難問の一つになる。

 デカルトは、すべてを疑い、ただ「疑っている私の存在だけは確実だ」と結論づけた。すべてを疑うことができても「疑う」という行為それ自体は疑いようがない。なぜなら疑っていることは紛れもない事実だからだ。そして疑っている者とは当然「私」のことに他ならない。だから私は確実に存在する。デカルトのように捻くれた考え方をしなくても、常識的に考えても、今ここでパソコンに向かっている「私」が存在しないなどということはありえない。パソコンは幻である可能性があるが−たとえば私が夢を見ている、変な薬を飲まされているとか−、パソコンが本物であろうと幻であろうと、それをみている(と思っている)私が存在することは間違いようがない。

 ここまではよい。確かに私は存在する。しかし「私」とは何だろう。ここから謎が始まる。私の身体は私ではない。私は私の手を見ている。しかし、それは私の手ではない、あるいはそもそもなにもそこには存在しないということはありえる。実際、事故や手術で脚を失った人が、存在しない脚に痛みや痒さを感じるということは良くあるそうで、そういう不思議な感覚があるからこそ、人は神経が通っていない義足にも順応することができるようになるらしい。

 私の手足や胴体が「私」ではないとすると、「私」とは何だろうか。デカルトが述べているとおり、私の身体とは別の精神とか心とか呼ばれるものとしか考えようがない。だが、こういう考えには唯物論的な思考法に慣れた現代人には強い違和感があろう。「心とか精神とか、霊魂などというものが身体と独立に存在しているのではない。精神とは脳神経系の働きに過ぎない。」と現代人の多くは考えている。だが、そうなると私の存在は確実とは言えなくなる。私の手が存在しないかもしれないのと同じように、私の脳も存在しないかもしれないからだ。生まれてから一度も脳の検査を受けたことがない人をCTやMRIで検査したら、脳がなかったということはありえる。そして、CT画像をみた本人が「あっ、私の頭蓋骨の中には脳みそがない」と言って驚くということもありえる。

 そうなると、私の存在は確実だというのは間違いなのだろうか。ここでウィトゲンシュタインならばこう指摘するだろう。「「私が存在することは確実だ」という表現は誤解を生みやすい。そうではなく「私が存在することを疑うことは意味がない」と言うべきなのだ。」と。つまり私が存在することが(存在論的に)確実なのではなくて、「私」という言葉は「私は存在しない」というような文章で有意味に使用することはできないという言語使用の現実があるだけなのだ。

 しかし、これは、「私」とは要するに「私」という言葉でしかないということを意味する。だが、これには私たちの常識が激しく抵抗する。紙に書かれた文字「私」や音声の「私」が言葉であることは誰もが認める。しかし、私は「私という言葉」に先立つ何かであり、その何かを「私」という言葉あるいは記号で指し示しているに過ぎない。そして、「私」という言葉に先立つ何かは間違いなく存在している。「私」とか「I」とかいう「言葉」は二次的な存在に過ぎず、言葉を幾ら分析しても、真の存在であるその何かを理解することはできない。私たちはこう考えたくなる。

 しかし、それでは、言葉に先立つ何かとは何か?どうしたらそれを明快に示すことができるだろうか。指で自分の頭を指し「これが私だ」と言えば、その何かを示したことになるだろうか。勿論ならない。先に論じたとおり、指も頭も幻かもしれない。しかも、その何かを示すために二次的であるはずの「私」という言葉を使用している。これではただの循環論法で何も解明したことにはならない。

 これまでの議論を纏めるとこうなる。私が存在することは自明であり疑う余地がない。だが、その私とは私の身体のことではありえない。しかし、身体とは独立した心とか精神が存在するという考えは現代人の科学的な物の見方と合致しない。矛盾を解決する一つの方法は、「私の存在は確実だ」という言明は存在論的な主張をしているのではなく、言葉の使用の問題を語っているのだと考えることだが、それでは私とは「私」という言葉でしかないということになる。ところが、これは私たちの直観に反する。だが、その直観を支持する確かな論拠はない。

 こうして私たちは袋小路に迷い込んでしまう。解決策は、デカルトの考えに戻り、心(あるいは精神)を身体とは独立した実体だと考えることだが、これは現代人の考えと合致しないだけではなく、それが正しいとしても、今度はどうして身体と心という異質で相互に独立したものが相互に影響を与えることが出来るのかという新しい難問(心身問題)が登場してしまう。こうして、私たちの探究は益々混迷の度を深めていく。

 これは意味のないスコラ哲学的な議論なのだというのが最も手軽な答えなのだが、これはある意味でウィトゲンシュタイン的な立場を採用することであり、問題を解消したことにはならない。「ゴジラは何を食べているのか」という問題ならば、無意味な問題、どうとでも答えられる問題として看過することができるが、「私とは何か」という問題はそうはいかない。人間にとって「私」の問題ほど重要な問題はないからだ。利他主義者でも博愛主義者でも各人の「私」を通じて世界や他人との共感を受け取っている。仏陀は「無我」を唱え「私」を捨てることを勧めたが、逆に人は「私」を捨てられないことを明らかにした。おそらく仏陀自身がそれを知っていて、「無我」を一つの理念として人々に教え授けたのだろう。

 斯様の如く「私とは何か」は難問で、しかもけっして無視することのできない問題だ。正しい問題には必ず答えがあると言われ、その考えは正しいと思うが、正しい問題だけが問題ではないことを忘れてはならない。人とは答えを得られない問題にこそ心惹かれる存在なのだ。そしてそれが「私」だ。

(H18/3/10記)


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