☆ 哲学とは何か(第4回) ☆

井出 薫

 自然と社会を議論する前に、「真理」という概念について簡単に論じておこう。

 真理とは、命題とか言明、たとえば「机の上に猫がいる」と、事実が合致していることを普通は意味する。

 しかし、命題や言明が事実と対応することが真理の条件とは限らない。1+1=2は普遍的な真理だと言われるが、1個の物と1個の物を併せても2個の物にならないことはよくあり、現実世界では1+1=2は普遍的な真理とは言えない。数学的な真理は物質世界に関わる言明や命題と異なり事実との合致により証明されるものではなく、数学体系の整合性により保証されると考えなくてはならない。1+1=2、1+2=3、3−2=1・・・代数学の体系の中で1+1=2は他の計算結果と論理的に整合するから普遍的な真理とされている。つまり、1+1=2は世界の事実と合致するから真理なのではなく、論理的な整合性により真理なのだ。

 幾何学では、非ユークリッド幾何学はユークリッド幾何学と同様に矛盾のない整合的な体系として認められており、非ユークリッド幾何学とユークリッド幾何学のどちらが真理かと問うことは数学的には意味がない。それぞれの体系の様々な定理は数学的にはどちらも普遍的な真理と言わなくてはならない。
(注)ただし、物質世界がどのような幾何学に合致しているかという問いは事実との照合により真偽が決まると言える。様々な観測結果から、宇宙が非ユークリッド幾何学に従うかユークリッド幾何学に従うかを決定することは可能だから、たとえば「物理的な世界は非ユークリッド幾何学に従う」という命題は事実との照合により真偽が決定されると言ってよい。物理学的な命題と数学的な命題とでの真理の規準が全く違う。

 代数学でも幾何学でも、その真理は事実との照合で証明されるのではなく、体系の中での整合性により証明される。数学ではすべての分野で整合性が真理の規準であり、現実との比較は問題とならない。
(注)前回も論じたとおり、数学世界なるものが存在して、その世界の事実と合致した数学的な公理、定理が真理なのだという数学的プラトニズムと呼ばれる立場もあるが、非ユークリッド幾何学とユークリッド幾何学が共に成り立つことをどのように説明するか、その数学的世界とはどこにどのような姿で存在しているのか、私たちはそれをどのようにして認識するのか、こういう問いに答えることは不可能であり、数学的プラトニズムは正しいとは言えない。

 では、命題とか言明が真理と言える条件は事実との一致か整合性のいずれかによる、と言ってよいのだろうか。

 次に、「歯が痛い」という言明を考えてみよう。この命題はどのような事実と合致しているのだろうか。心の状態?だが、私たちは心の状態をどのように観察するのか。その事実を如何にして発見するのか。歯が痛いとき、私は自分の心を覗きこみ、歯が痛いという心の状態があることを知り「歯が痛い」と言うのだろうか。そして、心の状態とその表現が合致するときに、この言明は真理だということになるのだろうか。そうではない。私が「歯が痛い」と感じるとき「歯が痛い」は端的に真理なのだ。
(注)「歯が痛い」などという言明を真偽が問題となる命題と考えることに疑問があるかもしれない。このような言明は嘘か本当かが問題となるのであり、真偽を問うものではないという意見があるかもしれない。だが、嘘か本当かという問題も、真か偽かを問うていると考えることができる。

 「歯が痛い」のような言明では、その真理の根拠は対応する事実でも整合性でもない。歯が痛いことを確認するために、私たちは事実を観察する必要もなければ、論理的整合性を気にすることもない。痛いときは「痛い」は端的に真理となる。紛らわしい表現かもしれないが、このような真理を観察によらない真理と呼んでもよいかもしれない。

 このように真理という概念には、その根拠の在り方により様々な種類がある。ここで論じた3つだけではなく、他にも様々な真理がが存在する。たとえば道徳的な主張「人を殺してはならない」を私たちはしばしば真理と言うが、これは何らかの事実と合致するわけではないし、体系の整合性に基づき論証されるものでもない。かと言って、歯の痛みのように直接的に真理であることが分かるものでもない。これは全く別の種類の真理だと言うしかないだろう。
(注)カントは、理性的な存在者であれば道徳的な規則を直接的に認識することができると論じている。しかし、カントの考えの妥当性には疑問があり、たとえカントが正しいとしても、歯の痛みを知ることと殺人が悪いことを知ることでは全く異なる。

 ハイデガーは「真理」とは「開かれて在る」ことだと論じた。存在が開示され、その現れが真理だというのがハイデガーの主張だ。存在が「机の上に猫がいる」という物理的な事実として現れているときには、「机の上に猫がいる」という表現は存在をあるがままに捉えるがゆえに真理となる。数学では、存在は様々な算術、幾何学などの体系として現れる。それゆえ、その体系の中に確かな地位を占める命題や計算は真理となる。歯の痛みは、その存在が直接的に開示される。そこでは私たちは周囲に関わりなく、その存在を直接的に捉え、それが真理であることを知る。「人を殺してはならない」は人間社会において私たちを拘束するものとして、その存在を示すことで、私たちはそれが真理であることを知る。

 このように、ハイデガーの真理の理論は、一見したところ不可解なものに思えるかもしれないが、本論で述べてきた真理という概念の多様性を包括的に捉えるためには極めて有効な立場だと言えよう。

 だが、ハイデガーの真理概念は、「存在とはそもそも何か」という根本問題が解かれなければ、具体的な事象に対して適切な真理のあり方を示すことはできない。そして、ハイデガー自身、終生「存在とはそもそも何か」と問い続けたが解決には至っていない。上で論じたことから示唆されるとおり、ハイデガーの思想においては「存在を問う」ことは「真理とは何を意味するかを問う」ことに等しい。それゆえ、ハイデガーの真理は、真理の多様性をうまく表現しているとは言え、真理の多様性を存在の多様性に置き換えることを可能にするだけに留まる。ところがハイデガーは存在の多様性を解明することに成功していないのだから、真理の多様性をハイデガーの真理により解明することはできない。論点が明確にされただけで課題は未解決のままだ。そこで次に「真理」を全く別の観点から考察してみることにする。「真理」を言葉の使用と結び付けるという方法で。


続く


(H18/1/21記)


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