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井出 薫
ポストモダニズムは「人間は合理的な主体である。」という考えを攻撃する。人間は、正しい方法を用いて、正しく考え正しく認識して正しく行動することができる知的存在であるというのが近代西洋の根本思想=人間主義(ヒューマニズム)だった。ポストモダニズムは、人間が、知性より情動に影響され、言語の体系や深層心理、イデオロギーなど不可視の構造に支配される不確実な存在であることを示した。人間は確かに合理的な主体などではない。 だが、ポストモダニズムが、近代の学問は合理的な主体という虚構に立脚したものであり、それを克服するところに真の学問が生まれると主張するとき、それに賛同することはできない。学問は一般的な記述を目指す。個別の歴史的出来事を題材とする歴史学でも、歴史的な出来事を一般的な観点−たとえば、マルクス主義者の唯物史観−から整理して記述することで学問的認識が成立する。人間が合理的な主体ではなく曖昧で不確かな存在だとしても、学問とはその曖昧で不確実な人間行動の中から一般化可能な側面を抽出して理論に纏めることで成立する。近代思想を超えたポストモダニズムの学問など存在しない。 要するに、人間を合理的主体として捉えることは、学問を展開するために必要な作業仮説なのだ。近代思想は、その作業仮説を過大評価して、しばしば、現実の人間そのものが合理的な主体であると勘違いした。その点を批判した点ではポストモダニズムは正しい。だが、学問が成立するためには、合理的人間という作業仮説が必要であることを無視している点では過っている。 |