☆ 市場の有効性、資本主義の限界 ☆

井出 薫

 マルクスは「資本論」で商業労働は商品価値を生み出さないと主張した。マルクスの時代は金融機関の役割はさほど大きくなかったので、マルクスは金融機関に従事する労働者は論じていない。だが、マルクスの観点からすれば、金融機関で働く労働者も価値は生み出さないことになる。

 では、これらの分野で働く労働者たちの賃金はどこから捻出されるのだろう。商業は商品価値を増やすことはない。しかし、商業なしには資本主義は成り立たない。商業労働はそれ自体では価値を生み出さないが、資本主義にはなくてはならない。そこで、製造業などに従事する労働者の剰余労働を搾取することで資本家が得た利潤からの控除として商業労働者に賃金が支払われるとマルクスは考えた。

 マルクスは、商業や金融業は、私的所有に基づく資本主義固有の現象であると考えていた。それは、社会が存続するために必要な業務ではなく、資本家などの支配階級が労働者階級から搾取するために必要な業務に過ぎない。従って、これらの業務は、資本主義が崩壊し共産主義の低い段階(レーニンが述べるところの社会主義段階)が成立したあとには不要になると考えられている。マルクスは、使用価値と価値(=商品価値)とを厳格に区別する。だが、価値を形成するのは、どのような社会体制でも必要となる業務における労働だけだと考えていたようだ。マルクスは、共産主義社会では、金融業や商業は消滅するから、商業労働や金融労働を遂行する労働者は価値を生み出さないと考えたのだ。

 マルクスは、社会主義や共産主義における経済運営の実際については何も述べていない。だが、マルクスは、市場は資本家が労働者を搾取するために作り出した歴史的なシステムに過ぎないとみる。だから、共産主義においては、市場は存在せず商業、金融業、広告宣伝業などは不必要だということになる。レーニンはマルクスの考えを継承して、「金は便所の装飾にしか役立たなくなるだろう」と論じている。社会主義の実現とともに市場が消滅するので貨幣も不要となるわけだ。

 だが、資本主義が崩壊し共産主義という無階級社会が実現されたとしても市場は存続する。
 計画経済は巧く機能しない。それはほんの少しの擾乱で崩れる。無理やり辻褄を合わせようとすると強圧的な政治をしなくてはならなくなる。市場は万能ではないが、経済活動に擾乱が生じたときの衝撃緩衝材として機能する。

 たとえば、計画経済では、自動車を製造する工場Aと自動車部品を製造する工場B1は完全に整合した計画に基づき生産をおこなう。だが、もし工場B1が事故や設計のミスで適当な部品が作れなくなったらどうなるだろう。自動車工場Aも生産がストップしてしまう。この連鎖は限りなく続く。不測の事態に対処するには、別の工場B2で同じ部品を作ればよい。だが、不測の事態が生じなければ余剰品の山になる。計画経済は、社会が必要とする生産物が数種類しかないような経済発展の低い段階でしか有効に機能しない。
 これに対して、市場経済は、弾力性がある。常に余剰や過小が生じているが、致命的な状況は通常生じない。公的機関の適当な介入により大抵は巧くいく。
 サッカーやラグビーで言えば、計画経済は全く融通の利かないマンツーマンディフェンスで、市場経済はスペースを埋めていく柔軟なディフェンスに相当する。最近のサッカーやラグビーでは、攻撃側は攻撃のスペースを作ること、守備側はそのスペースをつぶすことが重視される。

 資本主義が崩壊しても、経済活動は市場経済として営まれる。中国共産党が市場経済を導入したとき、頭の硬いマルクス主義者は共産主義の理念からの逸脱だと非難した。だが、市場経済の導入により中国経済は著しく発展した。

 如何なる社会体制でも、市場が経済活動に必須だとしたら、商業や金融業、広告宣伝業は専ら資本家など支配階級が労働者を搾取するための道具に過ぎないという見方の正当性は失われる。

 商業労働者や金融業の労働者の労働も商品価値を形成すると考えるのが妥当だろう。マルクスは、19世紀という時代的制約で市場の普遍的な有効性を評価することができなかった。

 しかし、資本主義における市場と、資本主義のあとにくる無階級社会における市場とでは多くの面で違いがある。

 資本主義では、富は貨幣として表象される。一方、無階級社会では、富は生産物・消費物として表象される。貨幣は適材適所に生産財や消費物を分配するための補助的な媒介者と指標になる。人々は貨幣ではなく、ものやサービスを求める。 無階級社会においても、商業や金融業、広告宣伝業は存続する。ただ、資本主義社会ほどは重要性を持たない。

 資本主義の搾取的性格と貧富の格差拡大は、金融とそれに関連する業務が過剰に肥大化する点に表現されている。金融関連業は目先の利く者にとっては他の業務とは比較ならないほど儲けられる事業である。そこに従事する労働者は工場労働者や一次産業に従事する者よりも高い給料を得て社会的な評価も高くなる。きつく地味な製造業や一次産業の労働は、先進国では敬遠され、発展途上国の労働者の仕事になる。そして、金融関連業での利益確保のために、製造業や一次産業労働者の賃金は抑制される。これは現実の皮相的な見方ではなく、原理的な根拠を持つことである。

 商業、金融業、広告宣伝業は体制を超えて生き残る。それは、市民生活と産業活動が円滑に営まれるために必要な機能だ。しかし、それが占める社会的地位は二次的なものに過ぎない。それにも拘わらず、資本主義では、これらの業務が支配的な地位を占めるようになる。

 レーニンは「帝国主義論」で帝国主義段階に至った資本主義を金融資本が支配する社会であると論じた。レーニンの分析は非常に粗雑なものであるが、20世紀から現代に至る資本主義社会の特質を表現している。

 貨幣が市場を駆動する資本主義において、金融の力の拡大は必然である。金融の力が肥大化するにつれて、すべての生産物は個性を失い、貨幣との定量的関係において規定される均一な「もの」と化す。マルクスが論じる価値の二重性という観点を援用すれば、「使用価値と(商品)価値の関係において、資本主義の進展とともに、使用価値が背景に退き価値が全面的に支配する。」ということになる。

 現象形態としては、必要なものが必要な人々に適宜供給されるのではなく、貨幣を保有する者が貨幣を増殖させるために必要なものを供給し・供給されるという事態が生じる。
 一刻を争う発展途上国の病人にワクチンが届かず、怪しげな健康食品や薬が先進資本主義国の市民に大量に供給される。この過程で、金融、商業、広告宣伝業界がぼろ儲けする。

 ここに資本主義の限界がある。ソ連型共産主義の崩壊により、資本主義は現在のところ無敵だが先は長くはないかもしれない。問題は次の社会体制を如何にして築きあげるかというになる。

(H15/5/27記)


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