☆ 主体とは何か? ☆

井出 薫

 最近の将棋ソフトは本当に強くてプロ棋士でも下手をすると負けることがある。将棋連盟は将棋ソフトと対局を自粛するよう棋士に要請しているらしい。確かにコンピュータに負けるようではプロ棋士の沽券が下がるというものだ。尤もチェスの世界ではすでにコンピュータが世界チャンピョンを負かしているから、将棋の世界でもコンピュータが名人を凌ぐときが来るのは避けられない。

 将棋ソフトと対局しているとき、人は、コンピュータと人間が対局していると言う。だが、コンピュータには将棋を指しているという意識はなく、ただプログラムに従って動作しているだけだ。だから、人間とコンピュータが将棋を指していると言うよりも、将棋ソフトを設計した者がコンピュータを使って他の者と将棋を指していると見た方が正しいだろう。将棋の名人やチェスの世界チャンピョンがコンピュータに負けたとしても、人間がコンピュータに敗れたと考える必要はない。まともに対局したら勝ち目がないのでコンピュータという道具を使って素人が名人に挑んでいると考えればよい。自転車を使って短距離の世界チャンピョンと競争するようなものと言ってもよいだろう。コンピュータには能動的な意識はなく、行動の主体とはなりえない。だから将棋を指すこともない。

 今のコンピュータは相手の指し手をモニターすることも、自分で駒を動かすこともできない。だからコンピュータとプロ棋士が対局するとしても、プロ棋士の指し手は人間が入力しなくてはならないし、駒も人間が動かさなくてはならない。だがコンピュータシステムにビデオモニター装置と駒を動かすロボットアームを取り付けることは可能だ。そうなるとコンピュータは人間の助けなしで、将棋盤を使ってプロ棋士と対局することができるようになる。さらに技術が進歩すれば見かけは人間そっくりなコンピュータシステム(アンドロイド)を作ることも不可能ではない。

 それが可能となったとき、それでも私たちはコンピュータが人間と対局しているのではなく、コンピュータという道具を使って人間同士が対局しているのだと言えるだろうか。どうも怪しくなる。アンドロイドが人間そっくりならば、私たちには人間同士の対局か人間とアンドロイドの対局か見分けはつかない。結果的に、私たちはアンドロイドにも人間と同じような能動的な意識を帰属させ、主体的な行動を取る者と認識することになる。

 ポストモダニストや一部のウィトゲンシュタイン主義者は「主体」概念を厳しく批判してきた。だが、その論理は些か(かなり?)屁理屈くさい。しかし、ITとバイオテクノロジーが飛躍的に進歩し普及している現代、主体概念の抜本的な見直しが必要であることは間違いない。おそらく理性的な自律的認識主体から、感覚的・感情的な倫理的主体あるいは責任主体という転回が必要とされている。それは現代の法解釈・法運用や倫理観に多大な影響を与えることになろう。


(H17/12/28記)


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