☆ 時間とは何か ☆

井出 薫

 「時間とは何か、こんな質問をされなければ、誰でも時間は何か知っている。しかし、いざ問われると、誰も答えを知らない。」とアウグスティヌスは語っている。確かに時間は誰でも知っている最も月並みなものだが、それが何かと尋ねられると説明できない。空間も同じように説明は難しいが、拡がりのイメージからそれなりに尤もらしく説明できる。しかし時間はそうはいかない。たとえば手を広げて「ほらご覧、ここに空間がある」と言うことはできるが、時間は「ここにある」と言えるような代物ではない。

 物理学では、時間とは単なる座標軸の一つに過ぎない。相対性理論はそれまで独立だと考えられていた時間と空間を結合させたとよく言われるが、そもそも、デカルトとニュートンの業績により、物理学では17世紀から、座標の中で、時間は空間と同類のものとして表現されていた。時間と空間を同質のものとして捉えることで、数学により物理は展開され、その延長線上にアインシュタインの特殊並びに一般相対性理論は成立した。確かにその道のりはなだらかではなかったが、相対論は、ガリレオ、デカルト、ケプラー、ニュートン、ライプニッツなどが生み出した古典物理学が必然的に至る目的地だったと言えるだろう。つまり近代的な物理学はその出発点から時間と空間を同質にものと考えていたのだ。

 だが、物理学的には同質な時間と空間で、なぜか物は空間の一点で静止することはあっても、時間軸上の一点で静止することはない。このことを物理学はなぜであるか説明できない。時間軸上を物が常に(同じ方向に)動いているということは物理学で説明できることではなく、物理学の前提をなしている。

 このことは「時が流れる」という言葉で表現されることがあるが、それに対して哲学者の大森荘蔵は「時は流れず」と反論した。「時が流れる」という考えは、「川の流れ」という表現からの誤ったアナロジーに過ぎないと大森は言う。確かに物理学の座標軸の一つである時間は流れない。船が時刻という記しが付いた旗を通過していくように、物が時間とともに変化するというのが正しい表現で、時間が流れていくわけではない。

 もちろん大森の批判は「時は流れる」という表現は些か紛らわしいと言っているに過ぎず、大した意味はない。とは言え、大森の批判は、物理学的な時間が、時間と空間の間に横たわる決定的な違いを捉えていないことを明らかにしている。「時は流れる」という表現は、私たちがすべての物は絶え間なく変化し続けているという最も原初的な体験を言い表した言葉で、全く違和感のないものだ。だが、物理学的な時間を真の時間だと考えるならば、大森の批判どおり「時は流れる」という表現は不正確で、その時間概念はこの私たちの最も原初的で確実な体験を少しも説明していないことを意味する。最初に述べたアウグスティヌスは近代物理学誕生よりも遥か昔に生きた人だが、その当時から近代物理学の時間に近い時間概念があり、それがアウグスティヌスを困惑させていたのだろう。

 時間とは物理学では説明できないとすると、それは何だろう。時間は過去・現在・未来と分かれる。過去とは、今この瞬間の私や風景とは違う私や風景を、私は記憶しているという体験に起源を持つ。そして、未来とは、この記憶に基づく現在の過去体験と同じ体験がまた繰り返されるだろうという予感に基づいている。昨日(過去)を記憶するから未来を予感するのだ。「鳥は三歩歩くと昔のことを忘れる」と言われるが、それが本当ならば鳥には時間という概念は存在しえない。−これは余りにも鳥に失礼な偏見だと思うが。−

 では、時間とは人間の意識に依存する主観的な存在に過ぎないのだろうか。そんなことはない。目の前にある明瞭な現実と曖昧な過去の記憶とはその鮮明さが全く違う。過去・現在・未来の全てが主観的産物ならば、過去の想起や未来の展望も現在と同じ明瞭さを持つことが可能であるはずだが、それは如何なる人間にも不可能だ。

 時間とは、客観でもあるし、主観でもある。「時間という名で呼ばれる世界の客観的な様相の人間的な現れの一つが時間だ」とでも言うのが最も相応しい表現かもしれない。尤も、こんなことを言っても、「なんだ、結局、時間が何か分からないことに変わりはないではないか。」と笑われそうだ。そのとおり。だがこれが真実だ。時間は何かと問うのではなく、時間とはどのような現われなのかを問うべきなのだ。


(H17/12/16記)


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