☆ マルクスの三位一体とその限界と可能性 ☆

井出 薫

 三位一体(三つの位階が実は一つの実体)という言葉はよく使われるが、マルクス「資本論」は見事な三位一体をなしている。「労働価値説」、「労働過程論」、「剰余価値理論」、この三学説がそれだ。

 商品価値は商品を生産するために必要な社会的平均労働時間だとする「労働価値説」から、生産に必要な労働力と生産手段のうちで新しい価値を作り出すのは労働力だけとする「労働過程論」が必然的に帰結する。生産手段が価値を作り出すのであれば、商品価値は労働時間だけでは決まらないことになり、労働価値説と矛盾するからだ。

 労働価値説から剰余価値理論も必然的に帰結する。商品の価値が労働時間で決まる以上、資本家と大土地所有者が取得する利潤・利子・地代は労働者の剰余労働から生まれるしかない。

 逆に労働過程論から労働価値説を導くことも容易にできるし、剰余価値理論から労働価値説を導出することもできる。このように三つの学説は等価とみてよく、ここに資本論の壮麗な体系が成立する。

(注)厳密に言えば、「労働力の担い手である労働者は、労働力それ自身を再生産するために必要な労働時間よりも長く労働することができる」という事実を追加することで初めて、労働価値説と労働過程論は剰余価値理論と等価になる。また、剰余労働が剰余価値という形態を取るのは資本主義的生産・流通過程が存在する場所に限られる。だから、剰余価値理論が、労働価値説並びに労働過程論と等価なのは、労働力再生産に必要な労働時間を超えた剰余労働が可能であることと、資本主義的生産様式が普及していることを前提したときだけということになる。だが、「資本論」が資本主義の本質の解明を試みる著作であることを考えれば、三学説は等価になる。資本主義を解明するということは、資本主義という現実を前提することであり、およそ資本主義が成立するほど生産力が向上した社会では、どこでも剰余労働が存在するからだ。

 数学や理論物理学を除いて、これほどまでに完璧な論理的整合性を持つ壮麗な理論体系は、「資本論」以外一つもないと言っても過言ではない。共産主義運動に共鳴するかどうかは別にしても、マルクスの資本論が偉大な著作であり、現代でも読む価値を失っていないことは誰にも否定できない。

 しかし、論理的完全性が資本論の致命的な弱点でもある。三学説の一つでも否定されれば、すべてが疑わしくなってしまうからだ。

 事実、労働価値説は正しいとは言えない。それは、精々、共同体の成員全員が可能な限り働かなくては生きていけなかった極めて生産力が低い原始時代や、飢饉などで危機的な状況にあったときを除いて成立しない。剰余労働の可能性がある場所ではどこでも、何をどれだけ作るかという点で、生産活動には恣意性があり、商品価値は労働時間だけでは決まらず、需要が決定的な影響を与えることになる。従って、同等の労働量が含まれている商品でも価値が異なることはある、いや寧ろそれが普通と言わなくてはならない。労働価値説が成立する状態とは、完全雇用状態と同じく現実的にはほとんど存在しえないものと考えなくてはならない。

 労働過程論も、コンピュータが登場して自律的な機械が生活や産業に浸透してくるとともに、信憑性は完全に失われている。生産現場での労働者と機械の違いは、後者は不平不満を言わない代わりに故障するということ以外ほとんどなくなってきている。そもそも、労働力だけが価値を作り出すと考えるのは無理があり、労働力と生産手段の適切な結合が新しい価値を作り出すと考えるべきだろう。

 剰余価値理論も労働者の生活・労働環境の改善で現実味が薄れている。

 資本論の三位一体は、こうして、その論理的完全性故に、身動きがとれず、その全体系がもはや過去のもの、マルクス主義者にとってすら恭しく祀りたてるだけのものへと衰退していくことを阻むことができない。

 では、資本論は読むに値するが、もはや現実的な価値は存在しないのだろうか。そんなことはない。

 労働価値説は商品価値の下限を規定するものとして読み直せば今でも妥当するし、発展途上国などの経済を論じるときに役立つと思われる。労働過程論はコンピュータ制御の自律機械と人の実質的な等価性を考慮して解体・再構築することで、労働・生産過程の本質を解き明かすことに寄与するだろう。また労働なくして人は生きていけないという事実は、どんなに産業が発展した時代においても変わることはなく、軽佻浮薄で拝金主義が蔓延する現代、そのことを人々に警告するためにも役立つ。

 資本論の根幹をなす剰余価値理論も、相対的剰余価値理論を中心に据えて再構築することで、絶え間なく新製品、新サービス、新技術の開発とその市場への提供へと駆り立てられる企業のあり方を解明するために多いに役立つことになる。

 こうして、その魅力ある三位一体を緩めることで−脱構築すると言ってもよいかもしれない−、それぞれの学説は現代に蘇る。資本論は生きているのだ。尤も、その三位一体に魅了された読者−筆者もその一人なのだが−にとって、それは些か辛いことではある。


(H17/12/3記)


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