☆ 量子コンピュータ ☆

井出 薫

 表と裏に書かれた数字を別の数字に書き換えるには、表を書き換え、裏を書き換え、2回の操作が必要になる。現在私たちが使っている普通のコンピュータ(以下「古典コンピュータ」と称する)では、この課題を実行するには当然2回の操作を実行することになる。もちろん、並列システムなら古典コンピュータでも1回で表裏を書き換えできるが、この場合も二つCPUがそれぞれ1回操作するのだから、操作の回数が2回であることに変わりはない。

 ところが、量子コンピュータを使うと1度の操作で表と裏の数字を書き換えることができる。つまり量子コンピュータは古典コンピュータより高速計算できるわけだ。

 尤も、これだけなら単に2倍になるだけで大したことはない。しかし、ある種の問題では、古典コンピュータでは2の1000乗秒掛かる計算を量子コンピュータは僅か1000秒でやってのける。2の1000乗秒というのは宇宙がビックバンで誕生してから経過した時間138億年を遥かに超える時間だ。ところが1000秒は僅か17分弱に過ぎない。つまり量子コンピュータは、古典コンピュータが宇宙誕生から現在に至るまでの時間を使っても解けない問題を17分で解くことができる。

 インターネットを使った商取引や電子入札ではRSAという暗号方式が使用されていることはご存知の方も多いだろう。この暗号は絶対に解読できないわけではなく、時間を掛けて計算すれば解読できる。しかし、古典コンピュータでは解読に掛かる時間があまりにも長すぎて、解読できたときには情報が意味を失っているために、実用上安全な暗号になっている。ところが量子コンピュータが実現するとRSA暗号は簡単に解けてしまう。つまり、量子コンピュータが実用化されると現在のインターネットセキュリティシステムはすべて変えなくてはならない。

 こんな悪用例だけではなく、量子コンピュータが実用化されれば多くの領域で、その超高速性を活かして極めて有意義な研究ができるようになる。遺伝子の相互作用や生態系の分析などにも威力を発揮するだろう。

 そんなわけで、量子コンピュータは物理学や工学の世界で大きな話題になっており、世界中で盛んに研究が進められている。とは言え、実用化は容易ではない。量子コンピュータの秘密は、量子論的な状態が、古典物理学的な状態と異なり、状態の重ね合わせで表現されるということにあるが、量子論的な状態を安定させ確実に操作するには、超伝導など(量子論的な性質がマクロ領域で出現する)特殊な物理系を利用する必要がある。これは技術的には決して容易ではない。だから、いつになれば実用的な量子コンピュータが実現できるか、そもそも実用化可能なのか、という問いには今の時点では答えられない。少なくともノートパソコンや携帯で量子コンピュータが使用されることはないだろう。そういうわけで、幸か不幸か今のインターネットのセキュリティシステムも当分の間は安心して使えることになる。


(H17/11/12記)


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