☆ 経済学の効用と課題 ☆

井出 薫

 よく理解できない腹いせもあって、経済学など、深い哲学的洞察に基づき書かれたマルクス「資本論」やアダム・スミス「諸国民の富」を除けば、役に立たないものばかりだ、などとケチをつけてきたものだが、二酸化炭素排出量取引の話しを聞くと経済学の効用がよく分かる。

 企業AとBがそれぞれ年間150万トンの二酸化炭素を排出しているとする。これが、排出量規制で100万トンに減らさないといけないことに決まったとしよう。Aは50万トン削減するのに10億円掛かるが、Bは2億円で出来る、しかもBは4億円使えば100万トンの削減も可能だ。二つの企業がそれぞれ規制を守るためには合わせて12億円の支出が必要になる。だが、たとえばAがBから50万トンの排出量を5億円で買い取ったとしたらどうなるだろう。Aは相変わらず150万トンの二酸化炭素を排出し続けるが、Bの排出量が50万トンに削減されるので、トータルで規制目標値200万トンが達成できる。ここで、Bは4億円の支出で5億円の収入が入ってくるから、排出量を削減して社会に貢献したうえに、削減に伴って利益が出る。Aも本来であれば削減に10億円支出しなくてはならないところが、排出量購入の5億円だけで済む。二つの企業だけではなく、社会全体で考えても、排出量取引がなければ12億円の社会的なコスト負担が生じるところが、4億円の負担で済むわけだ。−個別の企業の負担増は、料金の値上や従業員の賃金カットに繋がるから、結局社会的なコストになる。−こうして、二酸化炭素排出量取引が社会的に極めて有意義であることが経済学で証明される。

 これは極めて簡単な計算だが、経済学的な思考方法が社会に役立つよい事例だろう。

 とは言え、排出量取引を認めることが、直ちに最善の排出量削減策に繋がるかというと話しはそんなに簡単ではない。4億円で100万トン削減できると踏んでいたB社がいざ50万トンの排出量をAに売却したあとで、とても100万トンも削減できないと分かったらどうなるだろう。A社にお金は返すとしても排出量削減目標は達成できない。経営不振に陥った企業が排出量削減の確たる見通しもないのに排出量売却に動く危険性もある。−国際間の取引ではこの危険性はより一層高まる。−さらに二酸化炭素削減量を正確に把握できるのか、排出量取引が情報公開を徹底した公平な市場で行なわれるかどうか、技術的にも政治的にも課題は多い。

 しかも問題は企業や人々のモラルに止まらない。たとえば、二酸化炭素削減装置を作るために所有地の森林を伐採して施設を作ったとしよう。その結果工場からの排出量は確かに減ったが、伐採の影響で二酸化炭素が増加したということも起こりうる。植物は光合成をして大気中の二酸化炭素を吸収するから、植物が減れば二酸化炭素が増加する可能性があると言わなくてはならない。尤も植物も夜は酸素呼吸をして二酸化炭素を排出するし、植物の光合成が盛んになると植物を捕食消化する微生物や動物の酸素呼吸が活発化して二酸化炭素排出量が増加するから、森林の二酸化炭素吸収効果は小さいかほとんどないという意見もある。だが膨大な森林伐採が二酸化炭素排出量の増大に繋がるという点では多くの専門家の意見は一致する。だから二酸化炭素削減用施設の建設に当たっては、その施設自身が環境へ与えるマイナス効果を考慮に入れる必要がある。だが、このような効果は、一企業の活動だけではなく産業全体の活動と生態系の変動を正確に見極めないと算定できないから、現実的には正確な見積はできないと考えなくてはならない。

 このように経済学の範疇外の様々な要因が二酸化炭素排出量の増減に影響を及ぼすから、単純に二酸化炭素排出量取引だけで効率よく削減できると楽観することはできない。経済学的な考察だけですべてがうまくいくわけではないのだ。

 とは言え、これは経済学が有意義ではないということを意味するのではない。ただ、経済学的な考察だけですべてを決めることはできないことを示しているに過ぎない。現代の経済学では、市場における(価格という指標を中心にした)需要供給関係の考察だけでは、現実の社会状況を的確に把握し適切に運用していくことはできないということを、外部性、情報の非対称性などという概念を使用して上手く理論化している。経済学のモデルだけでは現実社会の定量的な予測や制御はできないし、それだけに頼って政策決定するべきではない。しかしそのことを経済学自身が正しく認識して、体系の中に組み込んでいる。つまり、失敗や限界もその学問体系の中に取り込んでいるという点で、現代の経済学は、哲学的思弁の領域を遙かに超えて相当に高い水準に到達していると認めてよい。

 ただ残念なことはこの優れた経済学を人々が必ずしも有効に活用していないことだ。自分の政治的・経済的主張を正当化するために極めていい加減な経済学理論の引用が目に付くし、経済学を専ら金儲けのためのノウハウだと考えている御仁も少なくない。「民で出来ることは民で遣るべきだ」という意見は、経済学的な考察に基づく普遍的に正当な主張であるかの如く語る人がいるが、これは明らかに間違っている。時と場合によるのだ。このような似非経済学的な主張に騙されないために、私たちは経済学の基本的な知識と経済学的な思考方法にある程度習熟しておく必要がある。

 それと忘れてはならないのは、経済学は、物理学、化学、生物学などの自然科学とは性格を全く異にするということだ。自然科学は、人間の外部に実在する物や事象に関する客観的な理論と考えても差し障りはないが、経済学は、人間の外部に存在する対象を扱う学問と考えることはできない。物理学の対象は、人間とは独立に実在する外的なものであり、(道具を使ってあるいは思考実験で)対象そのものの本質的な性質を変えることなく操作可能だが(注)、経済学では、対象そのものが、操作によって初めて作り出されるという自己言及的な構造を有するために、操作することで対象そのものが決定的に変化してしまう。−経済政策や経済思想(たとえば共産革命運動やその思想)が経済活動に与える決定的な影響を考えてみれば分かるだろう。−物理学の対象が外的なものであるのに対して経済学の対象は内的なものと言ってよい。その結果、数理学的な手法の有効性は限定され、数学的な分析結果と現実が合致しない事態が生じることは(技術的にだけではなく)原理的にも避けられない。経済学がしばしば役立たないと非難されるのは、数理的な分析結果が現実と合致しないことが原因である場合が多いが、それは学問の性質上当然の結果とみなくてはならず、それをもって学問的に不完全だと見るのは間違っているし、経済学が進歩すればより確実な予測が出来るようになると考えるのも間違っている。
(注)量子論を引き合いに出して、物理学でも観測が対象に決定的な影響を与えると反論する人がいるかもしれない。しかし、観測がもたらす擾乱は確率論的ではあるが量子論で厳密に予測することができ、統計的には完全に制御することができる。だから、対象の本質を観測という操作が変化させることはない。量子論は確率論的だが非決定論ではないことを思い出せばよいだろう。

 さらに、その対象の内的な性格により、経済学の場合には、その応用自体が倫理そのものとなることにも注意が必要だ。それは経済学では規範科学的な側面と実証科学的な側面を完全に分離することはできないと言われる所以でもある。物理学の悪しき利用は、その影響が結果(たとえば環境破壊や大量破壊兵器)にだけ現れるが、経済学の悪しき応用は、その影響が理論そのものにも現れ、ときには人々の頭に有害な思想や実践を植え付けることにもなる。

 このような経済学の特質をよく理解して、この有益な学問を実生活に生かしていくことが、現代に生きる私たちの課題と言えるだろう。そのためには、経済に関する哲学的な考察も必要になる。


(H17/11/5記)


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