☆ 心の理論(その3) ☆

井出 薫

(その2の続き)

 記号と物の違いはどこにあるのだろう。物と対応した記号がある。「この机」、「このリンゴ」、「この私」、これらの言葉では、外部の物と記号を対応させることができる。

 物と結び付いた記号を考えると、記号の最も素朴な形態は物の標識だと考えられるかもしれない。

 しかし、では、そもそも、「物」とは何だろうか。私たちは物を考えるとき、すでに記号化して、それを考えている。考えているときだけではなく、もっと原初的な感覚、見るときあるいは聞くときですら、物はすでに記号として捉えられている。私たちは決して直接的に「ありのままの物」なるものを見ること・聞くこと・考えることはない。

 記号に先立ち、記号の内容を示す「物」などというものは存在せず、すべては記号ではないか、こういう考えは近代西洋哲学ではしばしば見受けられ、現代のポストモダニズムにも継承されている。

 しかし、このような考えには無理がある。目の前にリンゴがあるとする。それは確かにリンゴそのものではなく、一つの記号化されたリンゴと言えなくはない。だが、記号としてのリンゴとリンゴという物との間には明確な違いが存在する。たとえば、こんな例を考察してみよう。私は目を閉じる。そして頭の中でそのリンゴがゆっくりと転がり出すところを想像する。さて、この想像上のリンゴと、目の前のリンゴを手に取り、それをかじるときのそのリンゴとは同じだろうか。違う。私が食べるリンゴは、私の身体が消化吸収する現実的な物であり記号ではない。このことから分かるとおり記号と記号が表現する物との間には埋めることができない差異がある。

 思考や想像の対象であり、そしてあらゆる学問的な認識、学問的なモデルや学的体系において操作される様々な「記号」と、リアルな私の身体が働きかけるあるいは私の身体に働きかける「物」とは全く異質な存在なのだ。

 私たちが、学的に世界を把握するとき、そこにある対象は確かに記号だが、記号の外には現実の物が存在する。ただし、両者には決して解消されることのない根本的な差異がある。しかし、それはカントが言うように「物自体は認識できない」ということを意味するのではない。「物」は「物に解消できない記号」を使用することで現実に認識される。ただし、認識の成果として現実に生み出されるあるいは見つけ出される学問的なモデルは、物ではなく記号の集積体になる。つまり、物自体は認識されないのではなく、記号の集積体からなる学的なモデルを構築することを通じて現実に認識されるのだ。

 このように認識のための道具であり、認識の成果でもある記号の集積体からなるモデルとそれが織り成す重層的で変容する世界、それこそが私たちが長らく「心」と呼んできたものの正体だ。それは、物としての身体とは異質なもので、身体に還元されることはない。しかし、心が身体から独立した存在と考える必要はない。身体は心を通じて認識され、身体を通じて心は機能する。ただし両者の関係がどのようになっているかを完全に理解することはできない。現実の身体と心の関係は多くの場合相互依存的だと言ってよいだろうが、その関係は良く理解されていない。だが、いずれにしろモデルの世界を心と考えることができる。

 さて、しかし、記号に対応する物がない場合もある。次に、そういう記号について考察することで、心の探究を続けよう。

(続く)
(第3回)了


(H17/10/27記)


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