☆ 心の理論(その2) ☆

井出 薫

(その1の続き)

 「記号」を論じる前に、もう少し、記号という概念に注目する理由を補足しておこう。

 コンピュータは計算をしていると言われる。しかし、コンピュータは計算をしていない。
 コンピュータの内部では物理的な信号が遣り取りされているだけで、そこにあるのは純粋に物理的な現象であり、計算ではない。コンピュータが計算をしているのではなく、人間がコンピュータを使って計算をしているだけで、高速で正確かつ自律的に動作するとは言っても、コンピュータは算盤や計算尺と同じ計算の道具に過ぎない。

 たとえばキーボードから「1+1」と入力すると、ディスプレイに「1+1=2」と出力されるとする。私たちはここで「コンピュータが計算をした」と言いたくなる。しかし、実際は、算盤の代わりに人間がコンピュータを使って計算をしただけで、コンピュータは物理法則に従って状態変化を起こしたに過ぎない。

 コンピュータは、「1」も「+」も知らない。キーボードの入力が「1+1」を意味するのは、あくまでも、そこに人間が介在するからであり、コンピュータには物理現象しか存在しない。コンピュータのプログラムは、普通、人が理解できるようなコンピュータ言語で記述されているが、コンピュータの中は1と0で通常表現される電子デバイスの物理的なON/OFF状態があるに過ぎない。

 「計算」とは、対象を具体的な物理媒体としてではなく抽象的な記号として捉える人間−あるいは他の知的生命体−だけが遂行する活動で、コンピュータのような無生物が計算をすることはありえない。無生物は物理的な相互作用を行なうが、人間のように抽象化された記号を理解することも、操作することもない。
(注)ただし、このことは心の計算理論を正当化するものではない。心の計算理論は、コンピュータが計算をしているという前提で、脳をコンピュータと対比させ、心をソフトウエアに対比させるものであるが、この前提は成立しない。だから、計算理論は妥当な心の理論とは言えない。

 何故そうなっているのか、これに答えることはできない。私たちは事実がそうなっていると認めるしかない。ただ、このような事実があるからこそ、「人間は単なる物ではなく心がある」という表現に意義が生まれる。単なる物でしかないコンピュータは物同士の相互作用しか行なわないが、人間は物とは異質な記号を操作している。

 身体能力と身体活動という物理学的・生物学的な次元から捉えれば、人間のすべての活動は、物への作用と物からの反作用の集合体に還元される。つまり身体という自然的な場所に立って語る限りは、人はコンピュータと同じ「物」という次元に留まることになる。しかし、計算のような記号操作を遂行することで、人は身体という物を超えた次元と関わることになり、そのような次元が心(あるいは意識)とその働きとして認識されることになる。

 喜び、悲しみ、怒り、不安、快・不快などの感情、痛みや痒みなどの感覚、これら様々な感情や感覚も、その対象が記号であることに変わりはない。たとえば重さの感覚は確かに物を実感させるものではあるが、それ自身は物でも、物の作用・反作用でもない。物という概念は、記号として表現される感覚から二次的に構成されたものに過ぎない。−ただし、このことは認識論的な立場での順位を意味しているのであり、存在論的には「物」の存在は人や人の心に先立つというのが筆者の立場だ。−

 「心」という言葉ほど曖昧で多義的な使われ方をする言葉はなく、記号が操作される場を心と定義することが、心という概念とそれが表現している出来事を把握する上で最善であると断言することは出来ない。しかしながら、これまで論じてきたことからも分かるとおり、「心と身体」という対比で語られる「心」を理解するうえで、記号と記号操作に着目する以上に適切な方法があるとは思えない。だから、私たちは心を解明するためには、記号を論じることが不可欠になると言わなくてはならない。

 そこで、まず記号と物との関係を議論することから始めるのがよいだろう。

(続く)
(第2回)了


(H17/10/22記)


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