☆ 社会と自然 ☆

井出 薫

 自然は自然法則で特徴付けられ、社会は規則で特徴付けられる。

 自然法則は絶対的・必然的で人間の意思ではそれに逆らうことも変えることもできない。一方、規則は、人間の意思で自由に違反することも、変更することもできる。だから、人間の意思で作り、解体し、変容させることができるのが社会の特徴だと言えよう。

 これに対して、「自由な意思で規則に違反しているつもりでも実は決定論的な法則により違反するように決められていた、と考えることができる。だから社会が規則で特徴付けられるとしても、根本的な部分では法則で特徴付けられる自然と変わらない。」という反論がある。だが、そうではない。必然的で人間の意思では変更することも違反することもできない自然法則から、(たとえそれが主観的な幻想に過ぎないとしても)違反可能あるいは変更可能と私たちの目に映る規則を導き出すことはできない。なぜなら、必然的な法則から、恣意性を有する規則を演繹することはできないからだ。要するに、自然法則と規則は全く異質な領域にあると考えなくてはならない。
(注)筆者は自由意志の存在には疑問を持っている。規則を破ることも、変更することも、新しく作り出すことも、自然と社会の拘束のもとで、半ば必然的に生じることだと考えている。だが、たとえそうだったとしても、私たちは、規則を私たちの発案で変えることが可能だと信じている。そして、故意に違反することも可能だと信じている。さもなければ、犯罪者を罰する根拠はなくなる。故意に法律に違反したと判定されるとき初めて、当該人物に刑事罰が適用される。すべてが必然ならば、刑事罰の条件である「故意」という概念に意味がなくなる。

 自然法則の自然と規則の社会とが全く別世界だと言うのではない。人間集団とその活動は、自然現象の一部とみることができるし、社会現象とみることもできる。人間集団とその活動に関して言えば、自然と社会は同じものの二つの側面だと言ってよい。ここで重要なことは、法則と規則は相互に移行できないから、二つの側面を一つにものに統合することはできないということだ。社会を自然に還元することはできないし、勿論その逆もできない。−そのことから、社会科学や人間科学を自然科学に還元するという自然主義や物理主義のプログラムは実行不可能であることが判明する。−

 規則で特徴付けられる社会を研究対象とする社会科学・人間科学と自然科学は、解消されることのない壁で隔てられた二つの学問領域を形成している。経済学のように自然科学に近いと考えられ、自然科学的な手法が盛んに取り入れられている学問分野でも、自然科学的な方法は発見法あるいは記述法として役立っているだけで、研究対象の本質を捉えるのに役立っているとは言えない。経済学では数学が多用され、確かに一定の成果をあげているが、物理学と数学のように両者に本質的な連関があるわけではない。記述のために便利だというだけだ。だから、経済学では、数学を過信するとただの数学ゲームに堕する危険性がある。経済学は数学を手段として使用することができるが、経済的現象の本質を把握するには別の概念的枠組みが必要となることを忘れてはならない。
(注)ただし、交通規則のように多くの人が無意識のうちに従っている規則は、外見上自然法則のような拘束力を持つ。だから、規則で特徴づけられる社会を研究する社会科学でも、法則を見つけることが研究目標であると考えられるのも無理はない面があるし、またそのように考えて研究を進めることが一定の成果をもたらすことも事実だ。特に、経済学や言語学などでは自然科学的なアプローチが極めて有効になっている。だが、これらの学でも、人々が行動とその相互作用の意味と意義を人々が理解できるような形で記述・分析し、将来を予測することがその本来の任務であり、物理学のように因果律に基づく数学的な説明が求められているのではない。

 規則が、違反可能であり、変更可能であることから、社会という場では、規則の再確認・再生産が常に必要になる。また、子供たちなど新参者への社会的な教育も不可欠で、それは自然的な本能に基づくものとは異質なものとなる。自然法則は習わずとも生まれたときから従うようになっているが、規則は特別の方法で訓練しなくては身につかない。−母国語ですら特別な訓練なくして身につくことはない−

 社会がごく小さな集団、たとえば親族だけから構成されているような小集団である場合には、規則の再確認・再生産・教育は暗黙の了解に基づく慣習的な遣り方だけで十分だろう。だが、社会が拡大するとともに単なる不文律の慣習だけでは制御しきれなくなり、規則それ自体を制度化して、制度に支えられる組織や法として実体化することが不可欠となる。つまり、文明社会とは、規則の集積体が物象化して制度・組織として構成されたものだと言ってもよいかもしれない。そこでは、当然のことながら政治権力・法制度、制度化された文化などが不可欠の要件として要請されることになる。また、教育も親族による孤立した教育ではなく公教育へと変貌することを免れない。

 また、このような社会の拡大と規則の物象化としての制度・組織の一般化とともに、自然科学とは異質な社会科学の研究とその応用が始まることになる。

 私たちは、このように自然とは全く異質なものとして社会を捉え、その研究もまた自然科学とは全く異質なものであることをよく理解して、社会とそこに暮らす人間を解明していかなくてはならない。


(H17/9/28記)


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