☆ 哲学とは何か(その3)〜数学〜 ☆

井出 薫

 数学的な真理とは何か。数学的プラトニズムという立場では、代数や幾何学の定理、公理系など数学的な真理が成立する数学世界が存在しており、私たちはそれを認識するのだと主張される。このような考え方は数学者には信奉者が少なくないが、数学世界がどこに、どのような形で存在しているのか、それを私たち人間はどのようにして認識することができるのか、という根本問題に解答を与えることができず、数学とその真理を説明するモデルとしては明らかに不適切と言わなくてはならない。それは、数学は常に正しい客観的な真理だという考えを言い換えたに過ぎない。もちろん表現の変更は有意義な結果を生むこともあるが、この場合は、数学的プラトニズムを持ち出しても、数学的真理への私たちの理解は一向に前進しない。

 数学者は沈思黙考して数学的真理を把握するのではない。紙や黒板、コンピュータディスプレイに式や図形を書きながら、数学研究を進める。今ではコンピュータシミュレーションも強力な研究手段となっており、4色問題などはコンピュータが存在したからこそ解決できた。数学でも思弁だけでは真理には到達しない。数学的な真理は人間の身体と様々な素材が存在して、それに様々な働きかけをすることで初めて発見される。物理学や他の自然科学とは違うが、数学においても、ある種の実験が行なわれ、それで真偽が決定されると言ってもよい。数学は抽象的だが、それでも現実世界の中にある。

 微分多様体論、抽象的代数、数学基礎論、これらの抽象的な数学分野は一見したところ、現実世界とは全く関係がないもののようにみる。だが、微分多様体論は場の量子論で、抽象的代数学は群論を中心として量子論や化学など様々な自然科学の分野で、数学基礎論・証明論はコンピュータサイエンスで、それぞれ決定的な役割を果たしている。抽象的かつ非現実的で、物理的な実在世界と乖離した世界に存在するように見えても、数学は必ず現実世界と繋がっている。だから、私たちはプラトンのイデア界のような現実を超越した数学世界が存在すると考える必要はない。

 数学は、他の学問と違って、一度真理であることが証明されたら、後から偽だとされることはないという特徴がある。デカルトは数学的な真理すら疑いうると、その懐疑的な省察で論じているが、それは悪霊に惑わされて間違った計算ばかりしている可能性があることを指摘しているに過ぎない。だが、「間違った計算をする」ということ自体が絶対に正しい計算があることを前提としており、数学的真理の確実性が否定されているわけではない。実際、デカルト自身、絶対的に確実な存在として「考える我」を確立してから、ただちに数学の絶対的確実性を再確認する。数学の確実性を形式的に疑うことはできるが、嫌疑は容易に晴らされる。

 とは言え、数学的真理も絶対的ではないとする立場は今でも少なからず見受けられる。よく引き合いに出されるのは、非ユークリッド幾何学であるが、非ユークリッド幾何学はユークリッド幾何学を否定するものではない。どちらも数学的体系として真理と認められる。ただ、物理学においては、ユークリッド幾何学が成立するような空間だと考えられていたものが、非ユークリッド幾何学的な空間であることが判明することはある。その場合、最初の考えは間違いであるか、近似的にしか正しくないということになるが、それはあくまでも物理学の問題であり、数学的な真理には少しも影響はない。他にも数学の確実性に懐疑的な議論は存在するが、数学的な真理の絶対性を否定する根拠はない。ただ、その物理学的な有効性が変わることがあるだけだ。だから、数学的真理は確実であると考えてよい。

 数学の持つこの確実性が哲学者を始めとして多くの人を惑わせてきた。その根拠はどこにあるのか。私は、数学は超越的な数学世界ではなく、現実との関わりにおいて存在すると論じた。だとすれば、それが絶対に確実だということはどうして可能なのだろうか。現実との関わりで私たちには常に誤りを犯す可能性があるはずだ。

 時刻の決定、ピラミッド建設、正確な損得勘定が不可欠な商業、様々な現実的な要求とともに数学は発展してきた。数学が他の学問領域から独立した学的領域として確立したのは19世紀後半以降と見てよい。だが、19世紀以降の極めて抽象性の高い様々な数学、多様体論、基礎論、抽象代数学などもすべて他の自然科学や工学と密接な関連を持って発展してきた。−ゲームの理論などは経済学との関連が深い。−数学は人間という生物種が自然と社会と適切な関わり合いを保つための強力な道具と考えることができる。しかも数学という道具は物理的な道具と違い磨耗することがない。そして、この道具の使用規則はこれまでの長い歴史の中で確立されてきている。この数学の道具性とその使用規則の確実性・汎用性が、数学的真理の確実性と普遍性を保障している。規則どおりに描かれた設計図に誤りがあることはありえない。設計図に基づいて建造された建物や機械は壊れることがあるが、それは現実の物質が設計図とは異なるものだったからであり、設計図そのものが正しいことには変わりはない。もちろん、現実の素材に配慮しないで数学的整合性だけで建物の設計をしたら、大ばか者と非難されるが、それは建築家が数学者ではなく物理学者であることを要請されているからだ。現実に建築をしないならば、設計図の正しさは少しも揺らぐことはない。

 だが、それでは、数学に新しい発見があることが説明できないではないか、という反論があるかもしれない。だが、自分が作り、自分で使っている道具に思わぬ性質があることに後から気付くということは珍しいことではない。自分が作ったものだからと言って、何でも分かっている、驚きを受けることなどない、ということはない。囲碁やチェスのソフトの設計者は予めソフトを組み込んだコンピュータの指し手をすべて予測できるわけではない。自分が作った囲碁ソフトと対局して、思わぬ手を指されて愕然とすることなど日常茶飯事だろう。人間は神ではなく、絶対的な高みから世界を作り出すのではない。物を作りながら、自分がまた物により作り出される。−このことを的確に指摘した点ではヘーゲルは正しい。−

 数学的真理の確実性は、その道具性と使用規則の共通性に基づく。だが、このような数学という道具とその使用規則が人間と社会にとって有用であるのは自明のことなのだろうか。違う。もし自然が今とは全く異なった様相を持っていたとしたら、私たちは数学などという道具を持つことは出来なかったかもしれない。たとえば、書いた文字が書いている途中で次々と消えていくとしたら、太陽が東から昇ったり西から昇ったりしたら、重力定数や電子の電荷など物理定数が刻一刻と変化していたりしたら、私たちは決して数学などという学問を作り出すことはなかっただろう。世界が一定の恒常性を持つからこそ、私たちは数学を作り出し、それを極めて有用な道具として使用することができる。

 数学は自然科学か?という議論がある。(この議論に大した意義はないと思うが)上の点を考慮すれば、他の自然科学とは異質とは言え自然科学の一つとみなすことができる。数学もまた自然が人間という種に授けた贈り物の一つなのだ。

 数学的真理の意味とその背景がこれで理解されただろう。数学的真理の確実性・客観性は、道具性と確立された使用規則、(言葉で的確に表現することはできないが)自然の特質に基づくものと言える。そして、この確実性の根拠を人が正しく見ないことから、数学の哲学的考察において様々な混乱が生じてきた。だが、それでも、人々の数学への信頼は決して間違ったものではなく、適切なものであることが分かる。数学的な真理への感動は、それが哲学的に歪められない限りは、比類なき有用な道具と自然への人々の理に適った健全な共感を示している。

 さて、数学的真理の意味が解明されたので、次に、数学的真理がその意義を得る場所である自然と社会の意味の考察へと移ることにしよう。
(続く)


(H17/9/28記)


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