☆ 哲学とは何か ☆

井出 薫

 何が真理かではなく、そもそも真理とは何を意味しているのか、なぜ真理を探究するのかを問うのが西洋哲学=哲学だ。

 哲学の原点であるプラトンとアリストテレスがこれに答えを与えた。「人は知ることを楽しむ動物であり(アリストテレス)、真理を探究する者こそが人間社会を支配するべきである(プラトン)。」真理の探究は人間と社会の本質に属する、だから人は真理を求めるというわけだ。そして、真理とは、「移ろい易い目に見える世界を超越したイデア(プラトン)、あるいは事物を概念分析して得られるエイドス(アリストテレス)」を意味する。

 その後、プラトンやアリストテレスの答えに満足しない多くの哲学者たちが、この問題に様々な解答を与えてきた。プラトンを継承して真理そのものを問う哲学こそ人間の最も高貴な行為だとする者がいる一方で、ニーチェのように、真理の探究とは現実を肯定することができない弱者の恨みが生み出した歪んだ活動に過ぎないと主張する者もいる。

 このように哲学そのものに否定的な意見もあるが、哲学は依然として真理の意味とその背景にあるものを探究し続けており、その活動は社会の中で一定の評価を勝ち得ていると言ってよい。哲学という言葉は役に立たない学問を意味するという嘲りを受けることも少なくないが、総じて哲学は人生と社会の真実とあるべき姿を考察する優れた学問的営為だと評価されることが多い。

 だが、哲学が2千年以上も前から同じ問題を問い続けてきたというのに、未だに意見の一致を見ないのは不思議だと思う読者もいるだろう。そこから哲学は(虚偽意識という意味での)イデオロギーに過ぎないという見方も出てくる。

 プラトンの時代と比較して、科学技術が飛躍的に進歩し産業が地球的規模にまで拡大した現代、それなりに評価されているとは言え、哲学の意義を本気で信じる者はごく少ない。哲学は骨董品として評価されているだけなのかもしれない。だから、哲学には現代的な意義があると考える者は、なぜ哲学では意見が一致しないのかを説明する義務がある。さもないと哲学は大学と学会と出版社という箱庭での(高尚だと思われているだけの)遊戯に過ぎなくなる。

 それは文学や政治で意見が一致しないのと同じだという説明がある。しかし、「文学的な真理」、「政治的な真理」の「真理」とはそもそも何かを問うのが哲学である以上、政治や文学の実情を引き合いに出して哲学を説明するわけには行かない。順番が逆なのだ。哲学的考察から、文学や政治で意見の一致がみられない理由が解明されなくてはならない。

 言葉の創造性、それが哲学で意見が一致しない理由だ。言葉の創造性と言っても、人の言語使用は生物的にも社会的にも強く環境に拘束されている。だから、私たちが言葉を自由に操り創造することができるわけではない。とは言え、言語使用の現場に「創造性」と呼べるような機構が備わっているのは否定できないだろう。この創造性の働きで、プラトンが哲学Pを提示すると、それを解体する哲学Aが必ず登場する。この過程には限りがなく、哲学は同じ問題を探究しながら見解の一致に至ることがない。

 しかし、こういう説明には簡単に反論ができると言われるだろう。「言葉の創造性が幻想ではなく事実であると証明できるのか。(できない)」、「言葉の創造性という表現でそもそも君は何を意味しているのか。(明確な解答はない)」、「それはどのようにして見解の不一致という事実と繋がるのか。(因果的な説明は不可能)」

 このような論難に明快な説明を与える能力もページの余裕もないが、正にこのような絶えることなく続く問いの連続に、読者は言葉の創造性と哲学の可能性を見てとることができると思う。これこそが哲学という営為なのだ。


(H17/9/4記)


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