☆ マルクスと現代経済学 ☆

井出 薫

 マルクスは、アダム・スミスやリカードなどの古典派経済学を継承して、資本主義が成立する基盤の解明を試みた。一方現代経済学は資本主義的市場経済の存在を所与の前提として、経済的諸指標の相互関係の研究に専念している。

 資本主義の成立基盤を明らかにするためには、利潤が生まれる条件と、財・資源・労働力の適正な分配が実現される条件を明らかにする必要がある。両者が近似的にせよ現実化することで初めて社会は維持されるからだ。

 マルクスは、剰余価値理論で前者の問題を詳細に議論した。しかし、労働力だけが新しい価値を作り出すというマルクスの主張は根拠が薄く、利潤の条件が解明されたとは言えない。

 一方、分配の問題については、マルクスは本格的な分析を行っておらず、(アダム・スミスの「神の見えざる手」で表現されるような)市場の自動調整機能を、あたかも自明の理であるかのごとく考えていたと言わなくてはならない。だが、市場の調整機能は決して自明ではなく、根拠の解明が不可欠の課題となる。ワルラスの均衡理論に端を発する現代経済学は、精密な数理モデルを構築することで、一見したところ分配の問題に解答を与えているように見えるが、実際は適正な分配が実現されることを前提として矛盾のないモデルを模索しているに過ぎない。だから分配の問題も未解決のまま残されている。

 物理学は、物理法則が成り立つ理由を答えることができないにも拘わらず、全学問の中で最も精密な学問であると信じられている。だから、経済学も資本主義の存立根拠を明らかにすることができないからと言って、直ちに不完全であるということにはならない。しかし、人間の意思とは独立した自然現象を対象とする物理学と異なり、経済学の対象は意思を持った人間と組織の活動であり、資本主義社会の存立の基盤を解明する作業を欠かすことはできない。と言うのは、社会的存在としての人間と組織は、所与の自然ではなく人間社会の諸活動の所産として歴史的に形成されたものであり、不変的な事実ではないからだ。

 現代経済学はマルクスが提起した資本主義の基礎に関する問題意識にほとんど興味を示していない。しかし、そこに重大な課題が残されていることを認識する必要がある。

(補足)労働価値説について
 マルクスは、「商品の価値は生産に必要な社会的平均労働時間である」という労働価値説をあたかも自明な真理であるかのごとく資本論の冒頭に掲げている。マルクスは、この価値理論が価値形態論で導出される貨幣形態があって初めて現実化するものであると説明しているが、それでも労働価値説が価値形態論から導出されるわけではなく、あくまでも労働価値説が第一次的な真理であることに変わりはない。価値形態論は労働価値説から導出される二次的な理論に過ぎない。根本は労働価値説なのだ。
 しかし、労働価値説は、労働力・資源・財の適切な分配が実現し、なおかつ、この分配が一意的なものとならない限り、意味をなさない。分配が恣意的で流動的なものであり、しばしば壊滅的なものにすらなるのであれば−事実はそうなのだ。−、労働時間と(交換価値という現象形態を取る)商品の価値との比例関係など論証されるはずがないからだ。
 マルクスは、同時代人であるダーウィンと同様、系が与えられると、そこで実現される状態はただ一つに定まるという考えに支配されていたと思われる。確かに、可能な解が一つしか存在しないのであれば、分配の問題は存在しない。可能な解が自動的に実現されることになるからだ。−これが市場の自動調整機能となる。−しかし、自然生態系でも、社会経済システムでも、与えられた系で実現可能な状態は無数に存在する。だから、実現可能な状態を明らかにして、その中で特定の選択肢が現実となった過程と背景を明らかにすることが不可欠の作業となる。これこそが分配の問題なのだが、マルクスはそのような問題が存在することに気がついていない。


(H17/7/11記)


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