☆ ボーズ博士とフェルミ氏 ☆

井出 薫

 この宇宙はボーズ博士とフェルミ氏が作った。ボーズ博士が作ったボーズ粒子なる代物は同じ場所に無限個の同じ粒子が入ることができるが、フェルミ氏が作ったフェルミ粒子は同じ場所に一つしか入ることができない。
(注)厳密に言うと、同じ場所ではなく同じ量子状態なのだが、本論は物理学の解説ではないのでご容赦願いたい。簡単に補足すると、ボーズ粒子はボーズ・アインシュタイン統計に従う粒子で、フェルミ粒子はフェルミ・ディラック統計に従う粒子のこと。いずれも量子力学特有の、素粒子には個別性がないという性質を共有しており、古典力学の世界では理解できない特性を示す。(「個別性がない」とは次のようなことを意味する。二つの電子が東と西から飛んできて衝突して南と北に飛び去ったとする。南に飛んでいった電子は東から来たものか西から来たものか。これは古典力学では決定可能だが、量子力学では決定不可能になる。素粒子には個別性がないために、衝突前には東と西から電子が飛んできて、衝突後は南と北に飛び去ったとしか言えない。それ以上のことを語ることはできないのだ。)数学的に表現すると、古典物理学から量子物理学へと移行するときに、ポアッソン括弧を交換子で置換することで導出される粒子がボーズ粒子で、反交換子に置換することで導出されるのがフェルミ粒子と言える。交換関係で表現されるか、反交換関係で表現されるかで、二つの粒子の統計学的な差が説明できるのだが、詳細は量子力学の教科書に譲る。

 人間の身体や身の周りの品々、さらには太陽などの物体はフェルミ粒子から出来ている。お陰で人類は住宅問題に悩まされることになった。同じ場所に60億人の人間を詰め込むことができないからだ。だが悪いことばかりではない。住宅問題に悩まされる代わりに、物体がフェルミ粒子のお陰で宇宙が真っ暗にならないですんでいる。太陽のような恒星は、核融合エネルギーを費やすと重力に抗することができなくなり、どんどん小さくなる。しかし、太陽程度の質量だとブラックホールになってしまうことはなく、白色矮星として宇宙に留まる。その理由は、フェルミ粒子である電子が同じ場所に入ることができないために、一定の大きさ以下には小さくなれないからだ。太陽よりも数倍重い恒星は、電子が同じ場所に入れないことから生み出される圧力(縮退圧と呼ぶ)では重力に抗することができないために、どんどん縮小していくが、それでも電子と陽子が融合してできる中性子がフェルミ粒子なので、中性子の縮退圧で重力崩壊を止めて中性子星として宇宙に留まることができる。太陽よりも10倍の質量を持つ恒星では中性子の縮退圧でも重力に抗することができず重力崩壊してブラックホールになってしまうが、そういう星は比較的少ない。

 要するに、粋なフェルミ氏のはからいで、人類は、住宅問題に悩まされるという難点はあるけれど、地上で平和?に暮らしていくことができるわけだ。

 では、ボーズ博士の作ったボーズ粒子は何の役にも立っていないのだろうか。とんでもない。私たちが生きていくためには光が欠かせない。この光の正体はフォトンという名のボーズ粒子の集まりだ。地上の生態系は植物や植物性プランクトンを第一次生産者として太陽光のエネルギーで維持されている。つまり、ボーズ博士の発明のお陰で人類は生き延びている。
(注)一部の化学合成独立栄養細菌は太陽光に依存することなく生命を維持することができるが、海底や地底奥深くなどの特殊環境を除けば、化学合成独立栄養細菌の役割は極めて小さなものでしかない。

 さらに、宇宙の構造とその運命を決める重力もグラビトンというボーズ粒子の集まりだと考えられている。ボーズ粒子は同じ場所に無限個の粒子が入ることが出来るので目立たないのだが、フェルミ粒子とともに人類の存在を支えている。

 ボーズ博士とフェルミ氏の発明で、宇宙は発展して人類が生まれた。だが、宇宙は二人の発明家を必要としたのだろうか。

 ボーズ粒子とフェルミ粒子の間には超対称性と呼ばれる対称性が存在すると考えられている。まだ超対称性粒子は発見されておらず、この考えは仮説に留まっているが、状況証拠や理論的な整合性からまず間違いないと素粒子物理学者たちは信じている。
(注)森羅万象を説明する究極理論の候補と期待される超弦理論やM理論では、素粒子は点ではなく超対称性を持つ紐として表現される。
 さらにフェルミ粒子が二つ結合するとボーズ粒子のようになる。たとえば超伝導はその事例の一つと言えるだろう。超伝導現象は、電子というフェルミ粒子が結晶格子の振動を介してクーパー対と呼ばれる一種のボーズ粒子を形成することで生じる。極低温で、電子がクーパー対を形成して、そのクーパー対が、ボーズ粒子特有の性質により、すべて同じ最低エネルギー状態(基底状態と呼ばれる)に集合することで超伝導現象が生じる。最低エネルギー状態に集合(縮退)したクーバー対の集団運動を壊すには、外部から一定量以上のエネルギーを加えない限り不可能で、電気回路の抵抗は零となり電流は流れ続けることになる。

 どうやら、ジキル博士とハイド氏のように、ボーズ博士とフェルミ氏も同一人物らしい。ただし、どちらの顔も善良だったということが人類に幸いした。


(H17/7/9記)


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