☆ 心の理論(その1) ☆

井出 薫

 クロスワードパズルの答えを考えているとき、人はあれこれと言葉を思い浮かべて、それをマス目に当てはめて答えを探す。心とはクロスワードパズルのマス目や思いつく言葉のような様々な表象を操作することだという考えがある。このような考えは、心の表象主義とか、記号の操作を計算と捉えることができることから心の計算主義などと呼ばれている。

 計算主義が正しいとすると、目の前にある現実の「リンゴ」と心に表象される「リンゴ」の像とを区別することができないと反論されることがある。しかし、現実のリンゴを示す記号には「現実・リンゴ」という印を与え、思考上だけに存在する「リンゴ」の像には「仮想・リンゴ」という印を与えることで問題は解決できると思われる。とは言え、私たちの心は、目の前に在るすべてのものを明確に対象の像として表現しているわけではないし、それを計算して操作しているわけでもない。目の前に在る物は、「その物」として私たちは捉えている。だから計算主義は疑わしい。

 心の機能主義という別の立場がある。心は、様々な人間の活動を媒介している。「リンゴを取ってきてください」と頼まれて、私たちはリンゴを手に取りその人に渡す。「リンゴを取ってきてください」という言葉を理解して実際の行動を導くという機能が心の役割であり、心の実体とはこの機能のことだというのが機能主義の立場だ。機能主義では、特定の機能をいつも同じように的確に遂行するために心にはその機能を果たす傾向性があると想定される。しかし、私たちは、何かを頼まれて、それを実行するときに一々深く考えたりなどしない。一連の行動が導き出される過程に傾向性があるなどと気がつくこともない。日常生活のほとんどの場面で、私たちは反射的に行動を起こしている。心が入力(たとえば依頼の言葉)と出力(依頼を果たす行動)を媒介しているとは思えない。ただ、依頼内容が不明確なときだけ、何を意味しているか考えて慎重に行動することになるが、このような事例は寧ろ希と言える。だから、心を意識する(あるいは意識される)ものと捉える限りでは、心の機能主義も怪しい。心の機能主義を正当化するには、無意識という領域を用意して、そこに情報や行為を媒介するという機能を割り当てるしかないが、無意識とは以前も述べたとおり、「無意識的に何かをする」ということを意味しているだけで、それ以上の深い意味を持たない。無意識なる実体は存在しない。だから、無意識を持ち出すことで機能主義を正当化することはできないと言わなくてはならない。

 計算主義も、機能主義も、「心」というものが持つ特徴を一面においては適切に捉えていると言えるが、全体的には、心の理論としては明らかに不完全だ。それは心の現実と合致しない。

 『人間は、空気振動を感知するのではなく音や話し言葉を聞く、光の流れを感知するのではなく画像や文字を視覚する。だから、心の役割とは、物理信号を処理することではなく、意味を担う記号を解釈して理解することだ。そして、そのような役割とそれが展開される場が心なのだ。』私たちはこういう風に考えたくなる。確かに心が扱うのは物理信号ではなく記号だ。これは間違いない。事実、そのことに着目して、計算主義も機能主義も記号処理という側面に焦点を合わせて議論を展開する。計算主義も機能主義も単純な物理主義ではない。このことが二つの理論が心の理論の候補と呼ばれる所以でもある。

 だが、記号とはそもそも何だろうか。記号やその意味は決して孤立した個人の心や脳に直接的に現れるものではない。ここに心の理論の難しさがある。対象を孤立させて実験をしたり観察したりすることができないからだ。私は先ずこの問題を考えていくことにする。
第1回了


(H17/6/28記)


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