☆ 嘘とは何か(その1) ☆

井出 薫

 間違ったことを言っても嘘を吐いたとは限らない。私が「日本の首相は森さんだ」と信じていたとして、そう言っても嘘を吐いたことにはならない。逆に、嘘を吐いたつもりで、偶然本当のことを言うこともある。森さんが首相だと信じていて、首相は小泉さんだと嘘を吐いたら、それは事実だったということになる。

 嘘である条件は、自分が信じていることと違うことを言う(あるいは書く)ことで、言った内容が事実かどうかは嘘の条件ではない。

 しかし、私は勘違いで、自分が日頃信じていることと違うことを言ってしまうこともある。小泉さんが首相であることを知っていながら、たとえば何らかの理由で酷く動揺しているときに人に尋ねられて勘違いをして首相は森さんだと答えてしまうということはありえる。これは嘘を吐いたことにはならない。

 嘘を吐いたと言えるためには、信じていることと違うことを言うだけではなく、それを故意に言ったということが必要だ。故意に自分の信念と異なることを述べたとき、あるいは書いたとき、嘘を吐いたことになる。

 しかし、私は嘘を吐いた、つまり、故意に自分の信念と異なることを述べたということをどうやって知るのだろうか。私は嘘を吐くとき、いや本当のことを言うときでも、頭の中のデータベースを検索してなどいない。私は、ただ、あるときは、信じていることを正直に述べ、あるときは嘘を吐き、あるときは勘違いをして自分の信念と異なることを述べる。私たちは普通、どれであるかを知っている。だが、どうやって知るのか誰も知らない。

 ときには、自分でも勘違いをしたのか、嘘を吐いたのか判然としないということもある。これはどういう状況なのだろうか。謎だ。

 盗みをして逃げ出すとき、突然警察官に呼び止められて尋問され、思わず自分の名前を偽ったとき、それは嘘を吐いたと言われる。だが、その者は故意に自分の名前を偽ったというよりも、思わず本名とは異なる名前が口を吐いて出てしまったというのが本当のところだろう。これは嘘を吐いたことになるのだろうか。難しいところだ。

 嘘を吐いたかどうかが裁判などで争点になるとき、本人の申告だけでは判決は確定しない。状況証拠などを考慮して、嘘を吐いた、ただ勘違いをした、どちらなのかが判定される。本人が幾ら勘違いをしただけだと主張しても認められないこともある。たとえば自分の名前を聞かれて違う名前を答えたとしたら、幾ら勘違いをしただけで故意ではないと主張しても普通は通らない。ただし、つい最近結婚をして姓が変わった人が、昔の姓を答えたというときには、勘違いと認定されることもある。しかし、この場合も、違う姓を答えるすぐ前に、別の人に尋ねられたときには正しく現在の姓を答えたという事実があれば、嘘を吐いたと判断される可能性が高くなる。

 「嘘を吐いたのか、勘違いをしただけなのか、それは本人だけが知っている。」こういう考えがあるが、それは実用的にも、理論的にも正しいとは言えない。裁判では、本人の申告とは反対の判決が下ることもある。裁判に限らず普通の生活でも、嘘を吐いたのではないと幾ら主張しても、信じてもらえないことがある。また、自分自身でも、どちらか分からないということもある。

 嘘とは共同体による認定により決まる。だが、その一方で、私たちには、嘘を吐いたかどうかを自分自身は確実に知っているという強い思いがある。そして、共同体的な決定と主観的な見解との間に齟齬が生じることもある。そういうとき、どうして誰も私を信じてくれないのかと叫びたくなる。特に、裁判で偽証罪が宣告されたときなど深刻な問題となる。

 嘘とは何か、これは実は非常に微妙な問題だ。主観的な規準こそが嘘かどうかの決定的な根拠であると私たちは考えがちだが、それは現実社会では嘘の判定基準として採用されることはない。そうでなければ、偽証罪などというものは存在しえない。だから、嘘とは私たちが日頃信じているほど単純なものではない。

 私たちは嘘を吐くことがあるのだろうか。私たちは嘘を吐いたことを知ることができるのだろうか。こういう問いを発することは無意味ではない。だが、何を、どうすれば、私たちはこの問いに答えたことになるのか、そもそも、これが途轍もない難問だ。

第1回了


(H17/6/19記)


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