☆ 量子暗号 ☆

井出 薫

 インターネットなどで現在使用されている暗号方式は、解読に必要となる計算量が膨大で実用上解読不可能なので安全なものと考えられている。たとえ世界最高速のコンピュータを使っても解読までに要する時間が天文学的な数字になるからだ。

 しかし、量子コンピュータが実用化されると、現在の暗号方式では簡単に解読されてしまう危険性が高まる。解くべき問題の性格にもよるのだが、量子計算の手法を使うと、古典的なコンピュータでは膨大な時間が掛かる計算を簡単に済ませてしまうことも可能になる。現在使用されている暗号の解読もそのような問題の一つとみなされている。
 量子コンピュータの実用化はまだ大分先のことと予測されているが、実用化が不可能というわけではない。実用化されれば、現在の暗号方式では通信のセキュリティを確保できなくなる。

 インターネットで使用されている暗号方式の多くは公開鍵方式を採用している。情報を送ろうとする相手が指定した鍵で情報を暗号化して送信するのだが、暗号化の鍵は全ての送信者に対して共通のものが使用されるので誰でも知ることができる。だが、途中で盗聴されても、暗号化の鍵を知っているだけでは解読は出来ないようになっている。実は、暗号化の鍵と解読のための鍵は異なる。盗聴者は暗号化の鍵は知っているが、解読の鍵は知らない。だから、盗聴者は暗号を解読できない。
 しかしながら、正確に言うと、解読不可能なのではなく、解読するのに膨大な時間が掛かるだけなのだ。時間を掛ければ解読はできてしまう。ただ、現在の技術では、余りにも計算に時間が掛かるので、解読したころには、解読した情報の価値はなくなっている。−もしかしたら、太陽に呑み込まれ地球が存在していないかもしれない。−だから実用的には解読不可能と考えているわけなのだが、量子コンピュータが実用化されると、この方式ではセキュリティは保護できない。暗号化の鍵と解読の鍵は異なると言っても、両者は独立なわけではなく、暗号化の鍵から解読の鍵を計算することは可能だ。その時間が天文学的な長さとなり解読の意味が実用上ないことが現在の暗号の安全性の根拠となっているのに、量子コンピュータの登場でそれが簡単に計算できるのでは暗号として意味がなくなってしまう。

 量子コンピュータが実用化されなくても、現在のコンピュータアーキテクチャーでも、コンピュータの高速化はどんどん進んでおり、解読の危険性は日々高まっている。インターネットを安心して多目的に使用するには、新しい暗号方式が必要と言わなくてはならない。そこで考え出されたのが「量子暗号」だ。公開鍵方式では解読の鍵(復号鍵とも言う)が計算されてしまう可能性があるので、送信する相手からもらう暗号鍵は非公開のものを使用する。だが、問題は、暗号化の鍵をどうやって安全に相手に送るかということだ。暗号鍵を普通の暗号化されていないデータで送ったのでは、盗聴される危険性がある。暗号鍵を盗聴されれば、公開鍵と同じことになってしまう。

 では、盗聴を確実に防ぐ方法はないだろうか。実はある。現在の暗号方式を危機に陥れるのが、量子論の原理を応用した量子コンピュータであるのと同様に、量子論の原理を使用して確実に盗聴を防ぐことができる。

 量子論の世界では、観測対象となる量子状態に全く影響を与えることなく観測することは不可能だ。つまり、観測をすると必ず最初にあった状態は破壊され、適当な方法を使えば状態が破壊されたことを検知することができる。

 盗聴も観測の一つだから、ネット上を伝達されている量子論的な情報をその状態を乱すことなく盗聴することは原理的にできない。盗聴すると、量子状態に擾乱が生じ、それが受信側で検出されてしまう。だから、暗号鍵が盗聴されていれば、受信側は、鍵を廃棄し、送信側に通信経路を変更して再度鍵の送りなおしを要求することができる。これにより暗号化の鍵が外部に漏れる恐れはなくなる。このように、量子論の原理を利用して構築された暗号化方式を量子暗号と呼ぶ。
 おそらく将来、量子コンピュータが実用化されようとされまいと、より安全な暗号方式として、量子暗号は、高度な機密事項を扱う行政機構など様々な分野で使用されることになろう。

 だが、量子コンピュータが簡単には実用化できないように、量子暗号も簡単には実用化できない。量子状態として情報を伝達するためには、量子状態が伝達できるような通信路と通信方式が必要となる。無線は駄目、超伝導状態でなければ銅線など普通の金属の線も駄目で、今のところ使用可能なのは光ファイバだけになる。光ファイバでも、普通に通信で使用するような強い光は使えない。強い光はたくさんの光量子のランダムな集団だから量子状態ではなく古典物理学的な状態になってしまう。光量子を一つ一つ送るような方法でないと量子状態をネットワーク上に送ることはできない。だが、このような微弱な光量子を送信して、それを検出するためには特別な技術が必要となる。しかも、微弱な光量子を確実に送り検出するためには、高速化は限界がある。たとえば、量子状態をFTTHで使用される100メガビットなどという速度で送ることは出来ない。数百キロビットが精々だろう。だから、暗号鍵の送信・受信用システムと実際のデータ伝送では切り替えが必要となる。このあたりも実用化のためには多くの技術的課題が残っている。
(注)厳密に言えば、この世の全ての現象は、古典物理学ではなく、量子物理学の法則に従う。だが、通常の自然現象では、古典物理学から導かれる結果と量子物理学から導かれる結果はほとんど差がない。強い光が伝送される光ファイバ伝送路もその例に漏れない。だから、そのような伝送路では盗聴されても、その量子論的な効果は(相対的に)余りにも小さいために検出することができない。−つまり、既存の光ファイバ通信網でも盗聴がなされれば、その量子論的な効果が必ず生じているのだが、現実的にそれを検知することができないということ。−だが、極めて微弱な光量子を一個ずつ送信して受信するようなシステムだと、盗聴による量子論的な効果を検出することができる。そのようなシステムが量子暗号だ。

 量子論の世界と古典論の世界では、普通はほとんど差がない。だから、私たちは、大抵の場合、解くことが簡単な古典物理学の法則や計算法を使って技術的な問題を解決している。たとえば半導体やレーザーのような原理的には量子論を応用しないと説明できない現象でも、実際の計算では古典物理学に近い方法を使用する。それで実用上は問題ない。しかし、量子コンピュータや量子暗号では、量子論そのものを直接使用しないと私たちは実用的な計算すらできない。だから、量子コンピュータや量子暗号は既存の技術とは全く異質なものだと言ってもよい。

 量子論の原理は、理論的には80年近くも前に確立されており、その正しさは理論の世界では揺るぎないものとなっている。だが、多くの技術が量子論の原理に依拠しているとは言え、量子論の世界が直接私たちの目に前に現れることはこれまでなかった。だが、量子暗号や量子コンピュータという形で、世界の基礎原理である量子論の世界がついに私たちの日常生活へ登場しようとしている。

(H17/6/4記)


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