☆ マルクスの新しい可能性 ☆

井出 薫

 将棋界最強の棋士羽生4冠の年収は1億円強だという。イチロー、松井などプロ野球界のスーパースターと比較すると10分の1に過ぎない。しかし、イチローや松井のような野球の天才と、羽生のような将棋の天才、どちらを作り出す方が難しいか、いい勝負だろう。おそらく、羽生のような天才を作る方が難しいと思うし、羽生の才能の方が広く社会に役立つように思える。

 しかし、市場のニーズは、将棋よりプロ野球の方が遥かに大きい。だから、羽生よりイチローや松井の方が遥かに高い年収を得ることになる。

 マルクスは、商品の価値は商品を作り出すために必要な社会的平均労働時間だと考えた。(労働価値説)だが、野球や将棋など娯楽の世界では労働価値説は成り立たない。マルクスは需要供給関係が価値を決めるのではなく、労働価値説で決まる価値量が需要供給関係を決めると論じたが、娯楽の世界では逆だと言わなくてはならない。

 娯楽の世界は、必需品や必需品を作り出す生産手段、社会的なインフラとは異なり、余剰の世界、遊びの世界だから、そこでは労働価値説が成立しないのは当然だろう。だが、マルクスの支持者ならば、社会的生産物の大半を占める必需品や社会的なインフラ、それらを作り出す生産手段では、マルクスの労働価値説は成り立つと反論するかもしれない。

 だが、道路、上下水道、電気、ガス、放送・通信ネットワークなどの社会的なインフラや、衣食住の生活必需品でも、労働価値説が成立する根拠は本当のところは存在しない。マルクスは労働がなければ何も生まれないと指摘している。それは本当だ。だが、そのことは、労働者の必要労働以上のものが商品の価値に含まれていないと、労賃で生活の糧を得ている労働者は生きていくことができないことを示すだけで、(社会的平均)労働時間が価値と等しくなることを論証しない。

 羽生やイチローという素晴らしい商品を維持するには、おそらく、少なくとも年間3千万円くらいは必要だと思う。だが、それに幾ら上乗せできるかは需要で決まる。市場の需要があれば幾らでも上積み可能だろう。生活必需品など一般的な商品でも、その価値は最低限必要労働を上回るものでなくてはならないが、剰余を含む価値量が具体的に幾らになるかは労働時間だけでは決定されない。

 マルクスの労働価値説はそのままの形では維持できない。だが、労働価値説はマルクス資本論の基礎だ。労働価値説が崩れると、資本論の核心である剰余価値理論は根拠を失う。商品に含まれる必要労働と剰余労働という剰余価値理論の図式は、労働価値説が成立することを絶対条件としているからだ。さらに、剰余価値理論と密接な関係を持つマルクスの労働過程論も成立しなくなる。労働力だけが新しい価値を作り出すのであり、生産手段−原材料・補助材料などの労働対象と機械などの労働手段−は自分に含まれている価値を新しい生産物に移転するだけで、新しい価値は作り出さない、というのがマルクスの労働過程論なのだが、これも労働価値説と表裏一体で、どちらか一方が成立しないと他方も成立しなくなる。

 しかし、労働価値説は成り立たない。従って、マルクスの資本論はその基礎から見直しが必要となる。

 労働価値説が成立しない以上、マルクス資本論はもはや現代的な価値がないという意見もある。よくみればマルクスに近い発想を持つケインズもそう考えていた。確かに、マルクスは必読書だとか、マルクスの思想に沿った理論が不可欠だとは言えない。中国のように共産主義を旗印にしている国でも、本音のところでは、マルクス「資本論」を必読書、けっして蔑ろにはできない基礎的な著作とは考えていないだろう。ただ先駆者として尊敬されているだけだ。

 だが、マルクス「資本論」は過去の遺物ではなく、現代に活かす道があると考える。ただ、そのためには、大幅な見直しが必要となる。その論点の幾つかをここに示しておく。

■価値形態論について

 資本主義社会では「生産物・消費物は必ず価格を持つ」という事実に着目して、単純な価値形態からではなく、貨幣・貨幣形態から価値形態論を始める。それにより、貨幣が有する記号性が明確になる。そこから、商品の「価値」の意味も変わることになる。マルクスの資本論では、商品の価値とは実体的なものではなく社会的な関係であることが正しく指摘されているが、資本論の叙述は全体的に価値の実体論的な捉え方から抜け出していない。それは貨幣の記号性が明確にされていないからだ。貨幣・貨幣形態から価値形態論を展開することで、貨幣と価値の記号性が明らかになると思われる。

■資本の恣意性

 貨幣と価値が記号であることから、資本=自己増殖する価値体も実体的なものではなく、記号となる。「資本」とは実体ではなく社会的諸関係に規定される記号として捉えられる。
 だとすると資本生産には抜き難い恣意性、相対性が付き纏うことになるが、それが正に事実なのだ。思わぬ商品がヒットし巨大な利益を企業にもたらしたりすることは、資本が孕む恣意性の現われと見てよいだろう。

■資本の生産

 資本が記号であることを踏まえ、資本生産がどのようになされるかを分析しなおすと、その基礎が社会的なシステムの差異であることが明らかになる。
 時間的な差異、地域的・空間的差異、権力関係の差異、情報の差異、およそ、この4つの差異が決定的な役割を果たしている。
 このうち、権力関係における差異が、資本家と労働者との対立からなる階級社会の特徴を示す。マルクスの時代には、この差異が極めて重要だったが、労働者の政治的・法的な地位が向上して労働者の生活・労働環境が改善された現代においては、この差異だけでは資本生産は進まない。
 資本主義社会では、時間的な差異の創出こそが決定的な資本生産の方式となる。市場機構や企業構造の抜本的な改革、新しい科学技術の発見・発明とその産業や生活への導入、新しい産業分野の開拓、政治制度・法体系の整備・変革、教育制度の整備・充実などで、国家・企業・家計の各経済主体で絶え間なく時間的な差異を創出していくこと、これが現代の資本生産の基礎的な方式なのだ。

■マルクスの意義

 詳細は別の機会に論述する。だが、ここで、一つ指摘をしておこう。このような新しい観点はマルクスの思想を根底から否定するものだと思われるかもしれないが、それは違う。ここで述べたことはすべて実質的にマルクスにより発見されている。不完全ではあるが、価値形態論や流通過程並びに利子生み資本の分析は、貨幣や価値、資本の記号性を示している。時間的な差異の創出は、マルクスにおいては「相対的剰余価値の生産」という題目の下で詳細に議論されている。
 マルクス資本論は、現代的な観点からすれば、多くの点で時代遅れであり、もはや必読書とは言えない。だが、そこには無限の可能性があることを忘れてはならない。

 ただ、マルクスの新しい可能性を十分に展開するには、思想界・言論界に羽生やイチローが登場する必要がある。果たして、それは可能だろうか。



(H17/3/12記)


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