☆ 反・「反科学」主義 ☆

井出 薫

 総じて、現代の哲学者は反科学主義(あるいは反科学技術主義)の傾向が強い。理学系の出身者である野家啓一氏や野矢茂樹氏なども、レッテル貼りをさせてもらえば、反科学主義の範疇に属することになろう。20世紀を代表する哲学者としばしば称されるハイデガーとウィトゲンシュタインの思想も反科学主義的な色彩が強い。

(注)反科学主義と反科学技術主義とは違う意味に使用されることもある。反科学主義だが反科学技術主義ではない、あるいはその逆ということもありえる。科学の技術に対する優位性という神話を批判するという立場もある。だが、通常は、両者は同じような意味合いに使われることが多く、野家氏やハイデガーの批判も両者をともに含むと言ってよい。だから、本稿では反科学主義とは反科学技術主義も含む概念として議論を進める。

 単純な科学主義には筆者も反対する。単純な科学主義とは、「自然科学特に物理学に全学問は還元される(されなければならない)。」、「世界とは素粒子と場の複合体であり、素粒子の法則で原理的にはすべてが決定されている。従ってすべては素粒子論により説明される。」、「自然科学と数学、科学技術の発展が社会のあり方を決定する。」というような主張を含む自然科学主義と科学技術至上主義のことだ。このような単純な科学主義は社会と人生の切実な問題を曖昧にして、社会と人間に対する極めて偏った歪んだ視点を持ち込む不適切な思想だと言ってよい。この意味での単純な科学主義に反対する「反・科学主義」は十分な正当性を持つものだ。

 尤も、上に述べるような単純極まりない素朴な科学主義に同意する者は実際にはほとんどいない。しかし、意識的に科学主義を採用していなくても、科学主義的・技術至上主義的なものの見方・考え方が社会の至るところで認められ、産業活動、医療現場、科学技術行政、科学技術教育など広い領域で現実社会に好ましくない影響を与えている。だから、反・科学主義的な思想は意義がある。

 しかし、反科学主義の哲学者の思想には、「反」・「科学主義」ではなく、「反科学」・「主義」が見られることが多い。「自然科学の発展は存在論の変革なしにはありえない」、「技術とは(本来隠されているべき)存在を露わにするもの」と論じるハイデガーの思想などは、反・科学主義と言うより、反科学・主義という色合いが濃い。存在への静かな思考や眼差しこそが人と世界の本質を捉えるもので、科学や技術はその指揮下に入らなくてはならないと主張するに等しいからだ。野家氏の「科学を物語的な視点から捉える」というテーゼにも、科学主義を批判するという立場を超えて、科学とその応用としての科学技術そのものを批判しようとする意図が透けて見える。

 だが、自然科学や科学技術はリアルな現実であることを忘れてはならない。人間は、原始時代から自然には存在しない複雑な道具を作り、使う動物として進化してきた。高度な人工的な道具を作り、それを使用するということは人間と人間社会の本質をなす。現代の科学技術は、その進化の延長線上に位置しており、公害や自然環境破壊など大きな社会問題を引き起こしているからと言って、それが人間社会にとって必須の構成要素であることに変わりはない。

 最も抽象的で論理的厳密性を持つ学問とされる数学も、その原点は、測量術や商業での数や図形の活用にある。物理学や化学、生物学、地質学など諸科学も、その原点には人工的な道具(貨幣もその重要な一部だ)を使って社会生活を営む人間が位置している。この事実は、極めて抽象的な現代科学特に理論物理学でも変わることはない。素粒子論や宇宙物理学など一見浮世離れした研究領域でも研究者は常に実験で理論を検証することに心を砕き論理に終始することはない。そして、実験は、研究対象そのものは浮世離れしたものでも−宇宙の始まりはどうなっているかとか、ブラックホールはホワイトホールと繋がっているか、など−、現実的な技術(たとえば超伝導技術や精密測定技術)と結びついている。科学は常に現実生活と密着している。

 しかも、AIDS、鳥インフルエンザ、BSE、オゾンホール、温暖化、環境ホルモンなど現代社会の重大問題を科学や技術と切り離して論じることは全く無意味だ。
 これに対して、科学や技術そのものを批判する哲学的思弁は論理遊びに過ぎないものがほとんどで、現実的な意義に乏しい。確かに、ハイデガーや野家氏の主張には魅力を感じるが、現実的な重要性を持つとは思えない。

 哲学者による科学批判は、突き詰めれば、帰納法への批判に過ぎないことが多い。昨日までずっと太陽は東から昇り西に沈んだからと言って、明日も同じことが起きるとは限らない。明日は西から昇り東に沈むということも論理的にはありえる。これが帰納法批判なのだが、大した意味があるとは思えない。人間は神や仏ではなく、全世界を見渡すことなどできない。だから、私たちの知識はすべて間違っている可能性があり、私たちの予測はすべて外れる可能性がある。

 しかし、そんなことは始めから分かっていることだ。良く立証された自然科学や技術は、善悪は別として、たいていの場合、私たちの期待する効果を生み出す。衛星は周回軌道に乗り地球の裏側の映像をお茶の間に届ける。海底ケーブルは音声や映像、コンピュータデータを、海を越えて遥か彼方の陸上まで運ぶ。飛行機や電車はたまには事故を起こすが、大変役立つものだ。科学文明の忌まわしい産物と言わなくてはならないが、兵器も予期される効果をほとんどの場合示す。こういう事実が、私たちの科学や科学技術への信頼を作り出し、維持している。科学が占星術や呪術より信頼されているのはこういう現実があるからで、科学の優位性が哲学的考察で論証されているからではない。マックス・ウェーバーは「合理性とは、世界は合理的に動いているという現代人の信仰に過ぎない」と言い放っているが、この信仰は現実に根ざすものであり、人々はただ闇雲に科学を崇拝しているわけではない。

 現実をみれば、「反科学」・「主義」は不毛と言わなくてはならない。それがもっともらしい顔をして私たちの前に現れ、心を惑わすとき、「反科学・主義」批判が必要となる。オウム真理教は歪んだ科学主義と言うより、歪んだ反科学・主義だ。麻原や信者たちの言動を見ると、現代科学を脱構築するという反科学・主義に近いものを感じさせる。−一時期流行したニューサイエンスなどにも同じ危険性が潜んでいる。−

 こういうことを考慮すると、反・科学主義だけではなく、反・「反科学・主義」も必要であることが分かる。私たちは単純な科学主義に反対すると同時に、一見深遠に見える「反科学・主義」も批判しなくてはならない。



(H16/11/3記)


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